「古典の日」吟詠の集いで上演しました~おくのほそ道 宮城・山形を詠う~の詩文等を掲載しました
【吟詠の集いの主旨】
吟詠の集いは、文部科学省により設けられた「古典の日」にちなんで日本の伝統芸能をみなさまに知って頂くため、宮城岳風会が開催しています。
【構成吟の概要】
「おくのほそ道 宮城・山形の詩歌を詠う」をテーマとして「漂白の詩人」と言われた松尾芭蕉が現在の宮城県・山形県で詠んだ俳句や紀行文と関連する著名な歌人の漢詩や和歌などをナレーション入りの構成吟として詠じました。
~ おくのほそ道 宮城・山形の詩歌を詠う ~
松尾芭蕉が白河の関を越えはるか遠いみちのくの宮城・山形へ江戸を旅立ったのは元禄二年の陽暦五月十六日であり、いわゆる「おくのほそ道」の旅です。
芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」と書き始め、西行法師、能因法師、源義経などに想いを馳せ多くの歌枕を訪ねるのです。中国の有名な詩人、李白や杜甫など風雅の道の先人たち同様に芭蕉も雲や風などの自然の動きに誘われて旅立ったのでしょう。
六月の五月雨時期に白石・名取を過ぎて岩沼に着きます。岩沼には「二木の松」とも呼ばれる、名勝「武隈の松」があります。尾芭は、江戸から三月をようしてこの二木の松を見ることができた感慨を句にしています。
武隈の松 芭蕉
桜より 桜より
松は二木を 三月越し
松は二木を 三月越し
名取川を渡って、伊達家六十二万石の城下町仙台に入りました。おりしも家々に端午のあやめを葺く日でありました。この土地の俳人で絵描き職人の加右衛門という人物が、あやめ草を思わせる紺の染緒をつけた草鞋を二足餞別にくれました。この風流心に対し、句を詠んでいます。
あやめ草 芭蕉
あやめ草 足に結ばん
草鮭の緒
足に結ばん
草鮭の緒
松尾芭蕉は仙台に四・五日間留まり加右衛門の案内で名所旧跡を見物したといわれます。伊達政宗侯が築城した青葉城も目の辺りにしたことでしょう。
青葉城は当時流行した天守閣は無く、日本の最も堅固なる城のひとつとして、今も四季折々、美しいたたずまいを見せ、仙台人の心のよりどころとなっています。
明治の漢詩人でる松口月城が、英雄伊達政宗を偲んで「青葉城」という詩を詠んでいます。
松尾芭蕉は仙台に四・五日間留まり加右衛門の案内で名所旧跡を見物したといわれます。伊達政宗侯が築城した青葉城も目の辺りにしたことでしょう。
青葉城は当時流行した天守閣は無く、日本の最も堅固なる城のひとつとして、今も四季折々、美しいたたずまいを見せ、仙台人の心のよりどころとなっています。
明治の漢詩人でる松口月城が、英雄伊達政宗を偲んで「青葉城」という詩を詠んでいます。
青葉城 松口月城
史跡尋ね来たる青葉城
今見る残壁緑苔の生ずるを
大鵬碑畔夕陽輝く
馬上の金人情を引くこと多し
仙台を後にした芭蕉は多賀城に赴き、平安時代に西行法師によって詠まれた「壷の碑」を訪れ、「泪も落つるばかり也」と感動しています。
多賀城は大和朝廷の拠点として、幾多の英雄が活躍した舞台であり、明治時代には旅を愛した歌人長塚節が多賀城の当時を偲んだ和歌を詠んでいます。
「おくのほそ道」への旅立ちにあたり「松島の月まず心にかかりて……」と詠んだ芭蕉は松島があこがれの地であり、「扶桑第一の好風」と評しています。
芭蕉に同行した曾良が「松島や鶴に身を借れほととぎす」と詠んでいますが、芭蕉は松島の絶景に感動したあまり句を作ることができなかったと言われています。
松島の緑の松をいただいた島々と浅い海が作り出す景観は壮麗であり、多くの先人たちにより歌や詩で読まれてきました。
江戸時代の漢詩人である大窪詩仏もまた尽きることのない島々の様子を詠っています。
松島 大窪詩仏
奇岩怪厳棹を回してゆく
幾人か此処に来たりて吟評費やす
猶お走馬灯中の影の如く
一島纔かに過ぐれば一島生ず
松島を後にした芭蕉は、平泉を目指し「姉歯の松」「緒絶えの橋」などの歌枕を探したが、道を間違えて、石巻に出てしまったようです。
石巻は、慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」の出発地でもありますように、江戸時代には貿易港として大発展を遂げました。芭蕉は数百の運送船が停泊している石巻港に感動してしまったようです。
当時の石巻を偲び、明治時代の歌人齋藤茂吉が和歌『石巻』で詠んでいます。
「おくのほそ道」の最北端となる平泉、そこには藤原三代の栄華の跡として中尊寺金色堂があります。
金色堂は藤原時代の建物として現存するものであり、幕末の漢詩人、大槻盤渓は奥州平泉を懐古した詩を詠んでいます。
平泉懐古 大槻盤渓
三世の豪華帝京に擬す
朱樓碧殿雲に接して長し
只今唯東山の月のみ有りてて
來たり照らす當年の金色堂
松尾芭蕉が平泉を訪れた主たる目的は、藤原三代の栄耀と義経を偲ぶことであり、その史実を回想しながら「都が戦に敗れても山河は残っており、都に春の季節がやってきて草や木が生い茂っている」と
中国唐時代の詩人杜甫の詩を胸に、「夏草や兵どもが夢の跡」と涙を流しました。
春望 杜甫
国破れて山河在り 城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
蜂火三月に連なり 家書万金に抵る
白頭掻けば更に短く 渾べて簪に勝えざらんと欲す
平泉を出た芭蕉は南下して出羽の国に向かいます。出羽の国は現在の山形県、ここには出羽三山と立石寺の二つの聖地があり、これをつなぐのが「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ急流・大河の最上川があります。
最上川は東北、山中に発して日本海へそそぐ大河で、コメなどの物産を舟で酒田港まで運ぶ重要な交通路でしたが、芭蕉が訪れた時には五月雨で増水して、川下りが危険なほど激流と化していました。
その様子を詠った芭蕉の紀行文『最上川』です。
最上川 芭蕉
最上川は 陸羽より 出でて、山形を 水上とす
碁点・隼などといふ おそろしき難所あり。
板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る
左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。
これに稲積みたるをや、稲船といふならし。
白糸の滝は青葉の隙々におちて
仙人堂岸にのぞみて立つ。
水みなぎって舟危うし。
芭蕉は尾花沢で紅花問屋を営む清風という俳人に長旅の苦労をねぎらってもらった。
この間、山形領に、慈覚大師が立てた立石寺あり、一見の価値ありとして参詣しました。日没にはまだ間のある夏の午後で、「岩上に建てられた十二ある御堂はどれも扉を閉め切って物音ひとつしない。岩場のふちを回ったり、岩の上を這ったりしてようやく本堂を拝むことができた。ひっそりとしずまりかえった素晴らしい風景の中で、ひたすら心が澄みゆくのを感じた」と詠んでます。
立石寺 芭蕉
山形領に 立石寺といふ山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に 清閑の地なり。
一見すべきよし、人々の勧むるによりて、
尾花沢よりとって返し、その間 七里ばかりなり。
日 いまだ 暮れず。
麓の坊に宿借りおきて、 山上の堂に登る。
岩に巌を重て山とし、 松栢年旧り、
土石老いて 苔滑らかに、
岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず
岸を巡り岩を這ひて仏閣を拝し、
佳景寂寞として心澄みゆくのみ覚ゆ。
閑かさや 芭蕉
閑かさや 閑かさや
岩にしみ入る蝉の声
岩にしみ入る蝉の声
芭蕉の「おくのほそ道」の出発当初は、みちのくの歌枕を訪ねて、心の世界の展開を試みることだったのですが、ただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生をすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのか? と問い続ける姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
最後に栄枯盛衰のはかなさを詠んだ水野豊州の漢詩『月夜荒城の曲を聞く』と土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の『荒城の月』です。
月夜荒城の曲を聞く 水野豊州
榮枯盛衰は 一場の夢
相思恩讐 悉く塵煙となる
星移り物換わるは 刹那の事
歳月 匆匆 逝いて還らず
史編讀み續く 興亡の跡
弔涙幾回か 凡前に灑ぐ
今夜荒城 月夜の曲
哀愁切切として 當年を憶う