コラム一覧

地元の紹介(山元教場)=山元町=

山元町は宮城県の東南端に位置し、東に太平洋を望み、西に阿武隈山地が広がる自然豊かな町であります。
気候は冬暖かく、夏は涼しく誠に住みやすく、海、森林、田、畑、果樹園があり、誠に自然環境に恵まれた地域であります。
町の人口は、9月末で11,578人、面積は64.58平方㎞。海産物はホッキ貝、タコ、イカ、さけ等の豊富な漁獲量があり、又農産物では米、イチゴ、パプリカ、リンゴ、柿等の豊富な農産物の生産地域であります。

山元町ホッキ飯は知る人ぞ知るグルメです。広報部では山元町のホッキ飯を求めて取材に出かました。案の定、昼時は10人待ちで30分後に席に付きました。ホッキ飯は味付けしたご飯の上に大きめのホッキ貝が八枚ほど載せられていました。
貝もほどほど柔らかく食べやすく煮込んでありました。店員さんによると、この貝は地元では形の揃ったのは少なくなっていて、経営者は北海道へ出向いて調達してきているとのこと、経営のご苦労がうかがわれました。(取材班)

皆様は最近の報道で、「山元・合戦(かっせん)原(はら)遺跡」を目に留めた方もいると思います。
此の遺跡は7~8世紀の54基の横穴墓群。土器4,341点、玉製品323点、金属製品1,415点等6,000点以上が出土し、東北大学某教授は横穴墓跡として東北最大の遺跡と思われると見解を明らかにしました。

山元町には豪華な茶室があります。残念ながら東日本大震災の大津波で一部が破損しました。山元町の茶室は一説によりますと、豊臣秀吉が伊達政宗に贈った茶室であり貴重な建造物であり、剣、甲冑、鎧等、その他多数の品々があり、山元町始め国の重要文化財であると伺いました。
山元町がふるさと納税型クラウドファンデングを開始し、全国の皆様よりご支援を頂き、今年から改修作業が始まるとのことです。

2011年3月11日の大震災で、山元町では最大震度が8.95との確認報道があり、町の沿岸部は津波により流され壊滅状態となりました。
JR山下駅付近では大津波が、海岸から2㎞の曹洞宗普門寺まで押し寄せてきました。
お寺の壁に、大津波跡が確認されています。海岸沿いの町並みは凡て流され、流出家屋は約1,750棟に及んだということです。宮城県内の皆様からのご支援そして全国からのご支援によりで、山元町は80%以上の復興にまで至っております。

毎年11月初旬に地元特産品を活用した「ふれあい産業祭」が開催され、山元町民はもとより県外からも多くの観光客が訪れ賑わいの産業祭です。

東日本大震災から12年、町全体が内陸に移設され活気ある町へと変貌することが出来ました。
                                          山元教場担当師範 石川 岳嵩

 

2023年12月30日

宮城岳風会会歌の成り立ちについて(会長 渡会岳弘)

9月発行の会報にさて何を書こうかと迷っていたら、一部の会員の方から会歌についての質問がありました。
会歌は毎年配られている「審査吟題」に掲載されているが、大会等ではいつも会歌の一番と四番しか合吟しない、またよく詩の内容が分からないとの声がありました。
それでこの7月の指導者研修会で師範の先生方を対象に勉強会を致しました。そのうちに師範の先生方から教室で説明があると思います。

宮城岳風会の発足は昭和45年4月12日です。この会歌ができたのが発足から5年目の昭和49年4月28日、当時の会長は大場岳凌先生です。
当時はまだ会ではなく「宮城支部」として 「支部歌」として制定致しました。 詩作村井光風 譜付佐藤岳養先生 (元福島岳風会会昭和54年3月17日総本部の承認を得て 「宮城支部」から「宮城岳風会」と改称されました。

この時、村井先生は「光風」から「一岳」となり、以後の詩文は一岳で記載統一しています。 村井先生は県南船岡に居住し、修養錬成所「天心館」を作り、会の吟道普及に大いに貢献された大変立派な方です。
県南地区の根拠地はここからスタートしたわけです。

村井先生は若い頃中国上海東亜文書院大学において学んだ漢学の知識を基にしてこの会歌が作られたもので、宮城岳風会の指針・柱になるものです。この会歌が皆様の心に溶け込み愛されることを願っております。
よく詩は心の叫びといいます。先人の作ったこの詩・会歌から学ぶものが沢山あります。 どうぞ教室においてみんなでこの会歌を口ずさんでください。

「宮城岳風会会歌」文意の紹介へ

2023年09月17日

【宮城文学散歩】今に伝わる北畠顕家軍(南朝方)への参陣の情景=加美町=

加美町は宮城県の北西部に位置し人口2万887人の農業を中心とした地域です。西方に加美富士と呼ばれる「薬来山」を仰ぎ、 さらに奥羽山脈の船形連峰をいただき山々にはブナ林や樹木、山菜の恵がある。これらの山麓から集められた清らかな清流が流れ鳴瀬川に集まる。

初夏は鮎釣りやカヌー大会、更に国道347号線沿いでは宮城と山形をかけ抜く加美町、尾花沢市、大石田間の街を貫通する自転車サイクルイベントが開催されている。 地域でのグルメ、なべ祭りなどが開催され大自然の魅力を存分に味わうためのイベントが多く開催されています。

冬はこの清流の源となる雪を利用したウインタースポーツが盛んでスキーや移住交流会、 宮城県雪合戦などが開催されます。
また、里山で栽培された野菜や山菜を販売するやくらい土産センター、やくらいガーデン、薬師の湯があり林泉館等の宿泊施設もあり四季を通じて楽しめます。
加美町は大崎地区農業の代表的な米生産地域であり、豊穣な大崎平野の恵を利用した酒の町でもあります。近年世界農業遺産にも認定されております。
平成15年(2003年の4月4日)中新田町、小野田町、宮崎町の三町が合併し、加美町となりました。

鎌倉時代には奥州総奉行の葛西壱岐守清重の支族である内海家(小野田) 四竈家(色麻) の一族が統治した。
内海家には桜の巨木があり春の目安となる「種まき桜」があり、数百年を経てそびえる桜を見に来る観光客が多くなりました。

南北朝期には北畠顕家に従い京都に遠征し足利尊氏の軍を九州に追討しました。
室町期には奥州探題である足利一門の大崎家が加美町 (中新田) に居城を構え奥州を統括した。

江戸時代には伊達政宗公が岩出山に移住し加美町の旧大崎家臣を配下に加え伊達家臣団が形成され伊達家の重臣である奥山家(小野田)や古内家(宮崎)只野家(中新田)がこの地を統治し多くの家臣が藩侯の警護のために江戸勤番を勤め、江戸屋敷に滞在し江戸の文化の導入に活躍した。

このため古代から鎌倉、南北朝、室町時代江戸時代をへて文化が継承され古いものは650年前の室町時代から続く中新田の「火伏の虎舞」は県重要無形文化財に指定されております。

ここで漢詩を紹介します。

 「小楠公の母( 愛吟集-33)」 本宮三香
 南朝の烈婦姓は楠木 許さず我が子茲に腹を屠るを
 桜井の遺訓汝忘れたるか 刀を奪い死を戒め涙目に溢る

   子別れの 松の雫に袖ぬれて
     昔をしのぶ 桜井の里 (明治天皇御製)

南朝の武将楠正成は桜井の宿駅でわが子正行「あくまで天子に報いよ」と懇々と諭し、涙ながらに最後の別れを告げた。これによって楠木公の名は後の世まで誉れ高く続いた。

父正成は湊川に討ち死にし、その首級が届けられた時、子の正行は嘆き悲しみ自分も自害して果てようとした。
この正行の行動に母は父正成の遺言である「天子に忠義を尽くせ」との言葉を忘れたのかと、懇々と諭した。母の言葉に深く感じ反省し、子の正行は改めて誓いその後、南朝方の武将として各地に転戦し歴史に残る偉功を立てたのである。

南朝方の北畠顕家の軍勢に参陣し京都の都まで遠征した加美町の武将達の家々でもこのような漢詩の世界が見られたとロ伝され出陣にあたり家族や父子、伯父甥、兄弟の中でこのような情景がそこかしこで見られたと伝わります。
                                                加美教場 伊藤 雄一

2023年09月17日

神保歌寿葉先生演奏の筝曲「菅公」「松島めぐり」を視聴いただけます

◆令和5年 県北(石巻)地区吟道大会

と き 令和5年9月10日(日)
ところ 宮城県東松島詩矢本字大溜1-1 東松島市コミュニティセンター

◆令和5年 県北(大崎・栗原)地区吟道大会

と き 令和5年9月2日(土)
ところ 宮城県大崎市松山千石松山428  松山公民館ホール

2023年09月13日

庄子輝泉先生の剣舞「兜」をご覧いただけます

と き 令和5年6月12日(月)
ところ 宮城県仙台市青葉区花京院1-3-2  仙台市シルバーセンター

[舞]大輪神刀流東北分家総本部
  二代目家元 庄子輝泉先生




   兜    大野恵造
 これはこれ 源平時代の兜
 かむれば壮麗 桜花お装い
 かざせば清香 梅花の嗜み
 芳魂烈々として古今に通う
 若きもののふの頭髗を包む 金銀の鉢
 勇なり武なり八幡座 知略たためる𩊱の段々
 日に照る篠垂れ 輝く眉庇
 起てば空衝く誉の鍬形
 合戦たけなわ 矢は降る 矢は飛ぶ
 攻め入る敵陣 エイエイヤー
 明暗転変 修練の早わざ 生死
 生死わかるる龍攘虎撃
 鬼神のはたらき 将帥仆せば
 忽ち挙がる嵐の勝鬨
 エイエイオー エイエイオー
 光陰兜の上を流れて
 あはれ忍び緒の色は古る
 静かなり ただ静かなり 天つ星
 そのかみの武勲 永久に秘めて燦爛







2023年06月16日

【宮城文学散歩】鳥の海八景=亘理町=

JR仙台駅から常磐線で岩沼駅を過ぎ阿武隈川鉄橋を越えると、乗車して20数分で亘理町の北の玄関口逢隈駅に着く。

駅西側にある小高い丘が国指定史跡陸奧国亘理郡衙(郡役所)「三十三間堂官衙遺跡」である。発掘調査で12ヘクタールに及ぶ広大な平安時代前半の遺跡が南北に在った事が分かった。
北区には実務官衙(郡庁院) があり役所の建物十棟や塀の跡が、南区には倉庫群の礎石が整然と配置されているのが見られる。 いよいよ今年度着工される公園整備が待たれる。
この近くには貝塚や竪穴住居跡 ・横穴墓などが多く、古墳時代後期から平安時代のものと見られ、阿武隈川と鳥の海の入江が交錯していた処と推測されている。

郡衙が役目を終えた後の平安時代、 この地を治めたのが「亘理郡権大夫藤原経清」であった。
過ってNHK大河ドラマで放映された「炎たっ」で奥州藤原文化を築いた「藤原清衡」は経清」の嫡子であり、感慨深いものがある。

逢隈駅から数分で町の中心地亘理駅へ。
駅舎に隣接する悠里館は亘理伊達家の居城「亘理要害(臥牛城)」を模した城造りの建物で郷土資料館・図書館が人居。 5階からの展望は西方に阿武隈山地や蔵王連峰、東には亘理平野や太平洋、微かに牡鹿半島や金華山までが望める。

亘理駅から北西へ徒歩15分の処には亘理伊達家初代領主「伊達成実」を祭神として祀った亘理神社(亘理要害跡)がある。
成実公は片倉景綱とともに伊達政宗家臣の双璧として活躍したことで知られる。成実公の菩提寺「大雄寺(だいおうじ)」は、神社から国道六号線地下道を潜り徒歩15分程の丘陵地にあり、境内には成実霊屋(成実公の木造座像安置) のほか亘理伊達領主歴代(13代)の墓所がある。

亘理駅から車で10分、荒浜海岸の人江「鳥の海」に着く。
この一帯は12年前の大震災で甚大な被害を受け様相は一変した。今の「鳥の海」は堅固な防波堤に護られ、住宅地跡は芝生の広場やグラウンドとして整備され町民の憩い場となり「わたり温泉鳥の海」の5階建だけが一際目立っ異様な光景となっている。

古代の鳥の海は阿武隈川河口であったと伝わるが、亘理伊達領主の時代からは塩田が開かれ、折々には仙台藩主等を迎え狩場や遊行されるほどの景勝地となっていた。
この当時を「鳥の海八景」として和漢詩二様に残したのが、亘理伊達六代領主村重公の侍医「馬場三達」で三達は主君の命を受け詠んだとされている。

漢詩「鳥の海八景」は、
  一、鳥海秋月   二、檻外観爛   三、鳥屋崎水鳥   四、蛭塚夜雨
  五、松崎タ照   六、塩釜閑煙   七、荒浜帰帆    八、当行晩鐘
で構成され当時の情景が詠まれている。

この漢詩に譜付けし亘理第一教場(現亘理教場)の詩吟教材とした先輩(元)会員がいる。
当時の担当師範後藤岳宗先生(現・本会名誉会長)監修の下で携わったのは故山形麗岳・上田一山の両氏である。平成14年のことで、丁度筆者が入会した年。
その後、漢詩「鳥の海八で景」は県南地区吟道大会や亘理町文化祭等で身近な漢詩として吟じ、詩吟の普及啓もうの一助とした時期があった。

漢詩「鳥の海八景」全文を掲載出来ないのが残念だが、書き下した一景「鳥海秋月」のみ紹介をさせていただく。
  三秋の潮色   江満て濃なり
  月を戴て縦横  舟松に人る
  婦に謀って携え来る  魚与酒と
  児童此の夜   吾が為に供す

この寄稿に際し「鳥の海八景」全文の通釈をいただいた総務部次長山根岳詠先生に改めて感謝を申し上げ「完」とします。
*【参考資料】郷土わたり(NO.21,36,107号わたりの郷めぐり・わたりの歴史めぐり)
                                                (亘理教場 坂本杜岳)

2023年06月11日

神保歌寿葉先生演奏の筝曲「祝いの曲」「大内山」をお聴きいただけます

◆仙台中央・南部地区吟道大会「招待筝曲演奏」

と き 令和5年5月24日(水)  13:00~
ところ 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3−2 仙台市 シルバーセンター

◆仙台北部地区吟道大会「招待筝曲演奏」

と き 令和5年5月15日(月)  13:00~
ところ 宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3−2 仙台市 シルバーセンター

2023年06月11日

【吟道】日本詩吟学院のホームページに掲載された「吟道」令和5年4月号で渡会岳弘会長の吟詠が視聴できます

【視聴方法】
 ①下記、吟題のリンクをクリックしてください。

  [吟題]春風馬堤曲(十八首中の一首)その一  [作者]謝蕪邨
       堤より下りて芳草を積めば 荊と棘と路を塞げり
       荊棘何の妬情ありて 裙を裂き且つ股傷つくるや


  [吟題]春風馬堤曲(十八首中の一首)その二  [作者]謝蕪邨
       渓流石点々 石を踏んで香芹を撮る
       多謝す水上の石 儂をして裙を沾さざら教むるを

 ②新たに開いた画面に表示される詩文の黄色に反転している部分をクリック
  してください。




出典:「吟道」4月号(公益社団法人 日本詩吟学院発行)

2023年04月20日

【宮城文学散歩】源俊頼・西行法師・松尾芭蕉=仙台市(榴ヶ岡)=

榴岡から西方を望むと、近代的なビル郡と、整備された道路、遠くに霞む山々が見え、この地が仙台の代表的な景観の一つと気付く。
榴岡の東方には、古に都との往還の道があり、多賀城に通じていた。榴岡や周辺の宮城野は、古来歌枕の地として大宮人にとって憧れの地であった。平安時代の貴族・歌人の源俊頼が

 とりつなげ 玉田横野の 放れ駒 つつじの岡に あせみさくなり

と詠む。※写真提供:Wikipedia(左)

平安時代末には、この地に奥州藤原泰衡の陣が敷かれ、源頼朝軍に対峙したという。
その時代に詠まれた西行法師の

 あはれいかに草葉の 露のこぼるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原

が残る。

時代が下って戦国時代、伊達政宗が仙台城築城の候補地として石巻の日和山と榴岡、青葉山を挙げている。幕府が決めた青葉山の天然の要害の地と比べると防御面で劣っていた。

江戸時代、元禄3年(1689)年5月、松尾芭蕉一行が画工・加衛門の案内で榴岡天満宮や宮城野の名所を旅した。

この芭蕉が訪れた場所に、平成27年3月、国指定名勝「おくのほそ道の風景地」として
「つつじが岡及び天神の御社(みやしろ)」と「木の下及び薬師堂」の2ヶ所が追加で指定されている。

「天神の御社」と記された榴岡天満宮の境内には、寛文7(1651)年、建立の唐門、
樹齢300年を越えるとされる、シダレザクラ・シラカシの老樹など芭蕉が訪れた頃の手がかりとなるものが残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てた数々の句碑もある。

「木の下及び薬師堂」には、慶長12(1607)年、伊達政宗が再建した薬師堂が宮城野の先にあって、日陰も漏らさぬほど繁った「木の下」の松林とともに、深い露に濡れており

 みさぶらひ みかさと申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり(よみ人しらず)

の一節を芭蕉に思い起こさせた。

現在、享保4(1719)年、再建の観音堂の脇には、芭蕉が仙台城下の居宅を訪ねた大淀三千風供養碑や
芭蕉がおくの細道に詠んだ

 あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

の句碑などが残る。

榴岡に桜が植えられたのは、仙台藩4代藩主伊達綱村の時代。生母三沢初子の冥福を祈り、
元禄8(1695)年、釈迦堂を、現在NPOプラザが立つ場所に建立した。

その際、隣接地に京都から桜や梅を取り寄せて植え、馬場や弓の稽古場を設けた。
一帯は参詣や武術の稽古に限らず、武士も庶民も楽しめる場として、出店、芝居で賑わうなど「四民遊覧の地」となり、今でも桜の名所として親しまれている。

釈迦堂は昭和48年県立図書館建設に伴い、榴岡にある孝勝寺境内の現在地に移され、事跡の書かれた石碑だけが残っている。

最も古い公園としては、福島県白河市の南湖公園が、白河藩松平定信により享和元(1801)年に築造したものとされている。(白河市ホームページ)

しかし、榴岡はその100年以上前に造られた日本最初の公園といえる場所であると仙台の研究者はとなえている。

                           (河北TBC教場 小野寺明岳)

2022年12月24日

第21回漢詩養賢講座「菅原道真と漢詩」を聴講しました

と き 令和4年11月27日(日) 13:30~
ところ 仙台市青葉区一番町4-1-3  仙台市市民サポートセンター(6階)
主 催 宮城県漢詩連盟(会長:山根敏春)

【講師 島森哲男先生(宮城教育大学名誉教授)】
1949年、千葉県生まれ。東北大学文学部卒後、同大学大学院博士課程修了。宮城教育大学教授を歴任。現在、同大名誉教授。専門は中国思想、特に先秦時代の諸子百家から漢代におよぶ思想を研究対象とする。
主な著書に「四字熟語―四文字が語る悠久の知恵 (講談社現代新書)」「四字熟語の教え (講談社学術文庫)」「孟子・墨子 (鑑賞 中国の古典)」等がある。
また、島森哲男先生には、令和4年10月16日に仙台サンプラザホールにて開催された、「第132回全国吟道大会」の合吟競吟の特別審査員を務めて頂きました。※岳風会の会員の方は「吟道」令和4年12月号P10を御覧ください。

◆ 菅原道真とは

菅原道真(承和12年6月25日〈845年8月1日〉~ 延喜3年2月25日〈903年3月26日〉)
日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。
しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神、受験の神として親しまれる。太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。

◆大宰府への左遷から晩年まで

昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、1月25日に大宰員外帥に左遷された。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会しとりなそうとしたが、衛士に阻まれて参内できず、また道真の弟子であった蔵人頭藤原菅根が取り次がなかったため、宇多の参内を天皇は知らなかった。
また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である。


出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F(ウィキペディアより)

宮城岳風会の令和4年初段の審査吟題にもなっている「九月十日」についても、先生からお話があり、その中で印象に残った点として、
”恩賜の御衣 今此に在り 捧持して毎日 余香を拝す"
の部分は、本当にそうなのか疑問に思うとのことでした。
前述の「大宰府への左遷から晩年まで」に記されているように、醍醐天皇の皇位継承に関わる陰謀によって大宰府に左遷されてしまった道真が、醍醐天皇から拝領の衣をそのような扱いをしたのだろうかと?

2022年11月28日

【宮城文学散歩】上皇后陛下=東松島市・女川町=

[上皇后陛下の御歌について]

上皇后陛下が平成23年3月11日東日本大震災で未曾有の津 波に襲われた被災地、東松島市野蒜に思いを馳せられて詠まれた御歌をご紹介します。

平成29年に詠まれた御歌で、東松島市の地名である野蒜をお使いになられた御歌がございます。
東日本大震災発生以来上皇陛下と共に被災地の状況に日々お心を寄せられた上皇后陛下が発生後まもなく、数ある被災地の中に春、御所のお庭でよく摘んでいらした“野蒜”と同じ、この地を見い出され、その頃から御心に留めていらしたお気持ちを、このような歌の形でその頃からお書き留になっていたものがこの御歌です。

  野蒜とふ愛しき地名あるを知る
        被災地なるを深く覚えむ

上皇后陛下の被災地へ寄せられた優しい御心を後世に永く伝えることを願い歌碑が、被災地の東松島市野蒜駅前復興公園に設立されています。
2019年4月20日、いきいき学院石巻校詩吟クラブの仲間と一緒に上記の御歌を、石森先生ご指導のもと朗朗と吟じました。



多くの尊い命を奪い未曾有の被害をもたらした東日本大震災から4年が過ぎた平成27年3月21日石巻線が全線開通し同日午前女川駅から始発列車が出発しました。
この知らせをお聞きになってご安堵とお喜びの中で上皇后陛下がお詠みになられ、その翌年の新年に発表されたのがこの歌碑(写真右)の御歌です。

  春風も沿いて走らむこの朝
      女川駅を始発車いでぬ

平成28年3月17日には上皇、上皇后両陛下が女川町へ行幸になり 、生まれ変わる新しい街並みのご様子をご覧になりました 。心に深い傷を負った人々が復興に向かって歩み始めた時、上皇、上皇后両陛下の被災地ヘ寄せられたお優しい御心に慰めと大きな力をいただきました。
                                石巻第二教場 福田 岳壽

2022年09月06日

詩吟は礼に始まって礼に終わる

教場長会議にて、渡会会長より以下のお話がありました。

[詩吟は礼に始まって礼に終わる]

長野県のある小学校でのことです。
保護者の方が何かの機会に詩吟を披露しました。それを聞いた先生方や保護者の方が感動して、すごく評判になりました。
そして「子どもたちに教えてみたらどうですか」ということとなり、PTAの方々が音頭をとって学童保育の中に詩吟を取り組むことになりました。

対象は一年生、二年生です。すると、子どもたちは知らず識らずのうちに礼儀を覚えました。
「詩吟は礼に始まって礼に終わる」ものです。
その礼とはステージに立つスタートから始まり丁寧にお辞儀をし、吟じ終えて2秒間のお辞儀をして自分の席に戻るまでを言います。
これを小学生に教えるとすごく礼儀正しくなりました。そして今までゴジャゴジャだった玄関の靴がきちっと揃うようになりました。

教場長会議より(令和4年8月11日 仙台市シルバーセンターにて開催)

2022年09月06日

「二郷嘉水先生」「小野寺江水先生の」薩摩琵琶の演奏を掲載しました

薩摩琵琶は,伊作(現在の日置市吹上町南部)常楽院の開山(創立者)宝山検校が庶民に仏教の教えを広めるために始めた、いわゆる盲僧琵琶が源流になっていると伝えられています。

元来,宗教音楽であった盲僧琵琶を芸術的な琵琶音楽にしたのは,戦国時代の武将島津忠良と,当時の常楽院住職渕脇寿長院です。この頃,琵琶が大形化し,演奏法も武士の好みに合せて勇壮なものとなりました。また,「崩れ」などの独特の弾奏法も始められ,戦記物を語る時の伴奏音楽としてもてはやされました。

江戸時代になって,座頭風,士風,町風の3派に分れ,人びとに愛好され,近代になってからは,士風琵琶を継承し,明治から大正にかけて薩摩琵琶の全盛期を迎えました。

現在伝承されている曲は「蓬莱山」のような祝賀歌,「城山」のような戦記物があります。
昭和37年(1962)に鹿児島県の無形文化財(芸能)に指定されました。

出典:鹿児島県ホームページより
http://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/museum/shichoson/kagoshima/biwa.html

県北(石巻)地区吟道大会「招待琵琶演奏」

と き 令和4年9月18日(日)  13:00~
ところ 宮城県東松島詩矢本字大溜1-1 東松島市コミュニティセンター

◆県北(大崎・栗原)地区吟道大会「招待琵琶演奏」

と き 令和4年9月10日(土)  13:00~
ところ 宮城県大崎市松山千石松山428 松山公民館ホール

◆県南地区吟道大会「招待琵琶演奏」

と き 令和4年6月26日(日)  13:00~
ところ  宮城県柴田郡柴田町槻木下町3丁目1−60 槻木生涯学習センター

  ≫「屋島の誉」詩文へ

 

◆仙台中央・南部地区吟道大会「招待琵琶演奏」

と き 令和4年5月11日(水)  13:00~
ところ  宮城県仙台市青葉区花京院1丁目3−2 仙台市 シルバーセンター

2022年06月30日

水戸八景(作者:德川齊昭)を訪ねる

水戸八景         [作者]德川齊昭

 雪時嘗て賞す 仙湖の景   雨の夜 更に遊ぶ青柳の頭
 山寺の晩鐘 幽壑に響き   太田の落雁 芳洲を渡る
 霞光爛漫たり 岩船の夕   月色玲瓏たり 広浦の秋
 遙かに望む 村松晴嵐の後  水門の帰帆 高樓に映ず

水戸八景を訪ねる

この3月吟友と1泊2日で、水戸偕楽園のうめ祭りに合わせ、奥羽三大古関の一つ「勿来の関」を経由し詩吟で馴染の水戸八景を訪ねた。
作者の德川齊昭は天保4年(1833年)水戸藩領内の景勝地として、北宋の瀟湘八景に倣って次の八ヶ所を選び、その場所に斉昭自筆の隷書で刻んだ漢詩と和歌が残されている。(律詩とは順位不同)

(1)青柳夜雨 ―水戸市
【和歌】雨の夜に舟を浮かべて青柳の木の間を渡る風の涼しさ

(2)太田落雁 ―常陸太田市
【和歌】さして行く越路の雁の越えかねて 太田の面にしばしやすらう

(3) 山寺晩鐘 ―常陸太田市
【和歌】つくづくと聞くにつけても山寺の 霜夜の鐘の音ぞ淋しき

(4)村松晴嵐―東海村
【和歌】真砂地に雪の波かと見るまでに 塩霧晴れて吹く嵐かな

(5)水門帰帆―ひたちなか市
【和歌】雲のさかい知られぬ沖に真帆あげて みなとの方によつる釣り舟

(6)巌船夕照―大洗町
【和歌】筑波山(筑波根)あなたは暮れて岩船に日影ぞ残る岸のもみじ葉

(7)広浦秋月―茨城町・涸沼・
【和歌】大空の影を映して広浦の 波間をわたる月ぞさやけき

(8)僊湖暮雪―水戸市・偕楽園
【和歌】千重の波よりてはつづく山々を こすかとぞ見る雪の夕暮れ

(1)~(8)までの齊昭の漢詩(普Ⅱ69、律詩水戸八景を参照下さい)と、ここに記載した和歌とを併せて鑑賞すれば、
なお一層詩情が深まるものと思います。
また、偶然にも今年の優秀吟の合吟課題吟に採られていたのも何かの巡り合わせかと思います。
                                            富沢教場 山根春岳

2022年06月18日

【宮城文学散歩】土井晩翠他=白石市=

白石城 -景綱公頌徳碑や二代横綱谷風梶之介・大砲万衛門の顕彰碑や銅像の他、松尾芭蕉ほかの句碑-

白石城は白石駅から西の丘陵上にある。 当城は、 1602年に伊達政宗より、片倉小十郎景綱がこの地を拝領し明治維新まで11代、約260年にわたり、片倉氏1万八千石の居城とされた。景綱は政宗の腹心として参謀・前線の指揮官として政宗の覇業に大きく貢献した知将とされた。
戊辰戦争の際には奥州越列藩同盟の会議所となった城である。当城は平成7年に復元された。
本丸跡には景綱公頌徳碑や二代横綱谷風梶之介・大砲万衛門の顕彰碑や銅像の他、松尾芭蕉ほかの句碑 があり、城跡の北隣に白石城歴史ミュージアムがある。

甲冑堂 -おくの細道」の中の「曾良日記」に白石に宿すとあり-

白石市斎川(斎川宿)に坂上田村麻呂を祭神とする田村神社があり、 境内に昭和14年再建された「甲冑堂」が立つ。
堂には源義経の家臣佐藤忠信・継信兄弟の妻、楓初音の甲冑を着けた大きな木造が収めらている。
※夫の甲冑をつけた妻女たち甲冑堂には、源義経の家臣、佐藤継信・忠信の妻女たちを讃えて、その像を安置しています。継信・忠信は義経の身代わりとなって、敵に討たれました。その母がこれを嘆くのを見て、兄弟の妻、楓と初音が夫の鎧、兜をつけて老母を慰めたと伝えられています。(出典:白石市ホームページより)
「おくの細道」の中に「曾良日記」によると忠信・継信の地元福島県飯坂町の医王寺に詣で石塔を見、それから斎川宿に入り「忠信・ 継信が妻の御影堂」を見て白石に宿すとある。

孝子堂 -境内には徳富蘇峰の書跡の碑と土井晩翠の歌碑-

白石市大鷹沢三沢の地に「碁太平記白石噺」として歌舞伎にも演じられるなど「奥州白石囃子」として有名な宮城野・信夫姉妹と父与太郎の霊を祀る「孝子堂」がある。
時に江戸期の寛永時代・百姓の与五郎は二人姉妹と田の草取りをしていたところ白石城下剣術指南の志賀団七の袴に泥がかかり、父は切り捨てられた悲劇が起きた。
その後、姉妹(本名、姉まち・妹その)は江戸へ出て由比正雪のもとで、宮城野・信夫と名をあらため、道場にて姉は鎖鎌・妹に薙刀を修めさせた。
修行をつんだ姉妹は白石に戻り、片倉小十郎公に敵討ちを願い出て、白石川六本松の河原にて仇討をとげた。
無礼討ちの場である「八枚田」(現在残されてる)の奥に孝子堂が建っている。
境内には徳富蘇峰の書跡の碑と土井晩翠の歌碑がある。(左写真(晩翠の歌碑):白石市ホームページより)

  【晩翠の歌碑】
 郷の生める宮城野信夫
 かんばしき孝女の誉
 千代に朽ちさず
                                               白石教場 鈴木岳昇

 

2022年06月18日

【宮城文学散歩】白鳥省吾=栗原市(築館)=

一昨年10月末、河北新報に「白鳥省吾の詩脚光」と大きな見出しで報じられた。
昨年のノーベル物理学賞に決まった米プリンストン大上席研究員の真鍋淑郎さん(90歳)の自宅に白鳥省吾の詩「夕景」の墨書がかざられていたことを受け、栗原市白鳥省吾記念館への入館者と問い合わせが増えているというものであった。

『白鳥省吾(しろとり せいご)』1890年栗原市築館生まれ。旧制築館中・早大卒。平易な言葉で庶民の生活や感情を表す民衆詩派の代表的な詩人として活躍。
70冊を超える詩集、随筆集・童話集などを著し、米詩人ホイットマンの訳詩集も出版した。小中高校の校歌の作詩も数多く手掛け、校数は約200校に及ぶ。1973年83歳で死去。』(河北新報より)
※左写真:栗原市ホームページより。

築館町(平成17年4月、栗原郡10町村が合併して栗原市築館が誕生)では省吾が詩壇に残した業績を後世に伝えるために、町立図書館に隣接する旧商家の石蔵を改修し、平成10年7月に「白鳥省吾記念館」を開館、現在に至っている。この敷地内に省吾の故郷を讃える歌「現うつし世に」と省吾の肖像レリーフの碑が建てられている。

 “ 現うつし世に生まれし幸に 生きぬかん
              一千年の姥杉のもと “

 (この世に生まれてきたことに感謝し、一千年もの歴史ある姥杉の里で生きぬいていきたい)

この歌には、口ずさむたびに背中を押してもらっている。
薬師公園内には、

 “生れ故郷の栗駒山は
        富士の山よりなつかしや “

の詩碑が建立。

この公園の北側を望むと、秀峰栗駒山、1626メートルの全貌が展ける。市民の憩いの場となっている。
さらに『薬師八景』なる漢詩の創作。その中の四題目、「駒嶽夢雪」の漢詩は、私たち築館教場の会員が、市の文化芸術祭などで詩吟発表。
省吾は、お薬師様の入口近くに位置していた、築館村字町屋敷47番地に生まれた。お薬師様は幼少のころから、友達と遊びふけった格好の場所。
省吾の心の中には、何時もふるさとの景色が懐かしく浮かんでいたのであろう。

ここで、詩吟でもよく吟じられている白鳥省吾作詩の漢詩「飯盛に白虎隊を弔う」をご紹介いたします。

【書き下し文】
  松風颯々として忠魂を弔う
  渓水涓々として古今を洗う
  日月炳乎たり勝敗の外
  錦楓地に満ちて吟心を照らす

【通釈】
  松籟悲しき飯盛山に登り白虎隊を弔えば
  谷川の水は昔のままに流れている
  勝敗はもとより問題ではない、白虎隊の誠忠は今もなお光り輝いている
  全山を覆う楓の葉が地上に満ちて、吟情しきりに動く

大正初期の日本の詩壇を代表する一人である白鳥省吾の出現は、故郷築館市民の喜びであり、誇りである。
私たちは「省吾さん」と親しみを込めて呼び、その詩を語り、時には詠じて語り伝えている。
みなさん、是非栗原市築館の「白鳥省吾記念館」に足をお運びください。

                                 築館教場 川股 渓岳(宮城岳風会 会報第105号より)


【白鳥省吾記念館】
  所在地 :宮城県栗原市築館薬師三丁目3番26号
  開館時間:午前9時から午後4時30分
  休館日 :毎週月曜日、国民の祝日(月曜日が祝日の場合は翌日も休館日)、年末年始、特別整理期間)
  入館料 :個人 一般:210円(18歳以上) 小・中・高校生:110円
       団体 一般:170円(18歳以上) 小・中・高校生: 90円 ※20名以上。
  ※上記情報は執筆時点のものです。詳細は栗原市ホームページ等をご確認ください。

2022年01月01日

松山ふるさと歴史館「歴史展示室」と「フランク永井展示室」

令和3年 県北大崎・栗原地区吟道大会を開催(令和3年11月14日)した松山公民館に隣接した、ふるさと歴史館(左写真)には、仙台藩の重臣であった茂庭家を中心に、松山地域の歴史を年代ごとに紹介し、定期的に企画展を開催している「歴史展示室」と、松山地域出身で昭和歌謡界を代表する「フランク永井」の軌跡を紹介する「フランク永井展示室」があります。


<フランク永井展示室>
フランク永井展示室には、日本レコード大賞や有線放送大賞などの賞牌(しょうはい)や賞状、発売されたシングルレコードや愛用品を展示するコーナーが設けられています。

また、実際にステージで歌っている姿を映像で見ることができる、ライブラリーコーナーもあります。

出典:大崎市ホームページ 松山ふるさと歴史館
https://www.city.osaki.miyagi.jp/shisei/soshikikarasagasu/kyoikuiinkaijimukyoku/matsuyamakominkan/1/1/2682.html


フランク 永井(1932年3月18日 - 2008年10月27日)は日本のムード歌謡歌手である。本名は、永井 清人(ながい きよと)。
魅惑の低音と称された独特の豊かな低音を武器に、師である作曲家の吉田正とともに都会的でジャズテイスト溢れるムード歌謡のジャンルを切り開き、数多くのヒット曲を世に送った。

2009年3月2日に出身地である宮城県大崎市の「特別功績者」第1号に選ばれる。特別功績賞は市の名誉市民に準じた業績のあった故人が対象で、2月に創設された。
また、2009年10月27日には大崎市松山ふるさと歴史館内に、トロフィーやレコード、愛用品などを展示する「フランク永井展示室」がオープンした。
2009年3月16日には大崎市松山体育館で「第1回フランク永井歌コンクール」が開催され、以降は毎年3月に開催されるようになった。

※写真(右上)は松山ふるさと歴史観に建立されている歌碑「おまえに」作詞:岩谷時子 作曲:吉田正

出典:ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E6%B0%B8%E4%BA%95



【松山ふるさと歴史館】
  所在地 :宮城県大崎市松山千石字松山428番地
  開館時間:午前9時30分~午後5時
  休館日 :月曜日(祝日の場合はその翌日)および年末年始(12月29日~翌年1月3日)
  入館料 :大人:230円、小中高生:110円
  ※上記情報は執筆時点のものです。詳細は大崎市ホームページ等をご確認ください。

2021年12月29日

【宮城文学散歩】山本周五郎=船岡城址公園(柴田町)=

宮城県柴田町船岡といえば桜の名所として又、要害の城下町としての歴史もあります。
JR東北本線船岡駅から船岡城壮公園までの範囲にも、古くからのお寺や神社、城下町等の面影を感じられる特徴的な町並みが残されています。

春になると残雪を抱いた、蔵王連峰と白石川堤の「一目千本桜」と船岡城祉公園の桜が一体化した景観は一見の価値があり、外国人も「オーワンダフル!」を発しています。
ここは、宮城県で唯一、日本さくらの会より「さくら名所100選の地」に選ばれました。


~文学碑 山本周五郎作 「樅ノ木は残った」より~
公園の二の丸「絹引きの井戸」の北側に原田甲斐と柴田外記の供養塔があり「椎の木は残った展望デッキ」の後方には山本周五郎の文学碑があります。

原田甲斐は船岡城主宗資の子で、父の死により5歳で家督を継ぎ江戸時代の初期には仙台藩の重臣になっていました。
仙台藩の野谷地(低湿地)の領地境界争いから端を発し、各重臣の思惑が加わり論争、事件は起きた。
寛文11年(1671)3月27日、酒井雅楽頭邸で伊達安芸宗重が幕府に訴えた審問の席上で、原田甲斐は激昂、乱闘になり伊達安芸宗重を斬殺した。(伊達騒動「寛文事件」)で悪人とされてきた原田甲斐を山本周五郎は、小説「縦の木は残った」昭和33年(1958)で、原田甲斐が身を捨てて藩の存亡の危機を救った人物として描かれています。
昭和45年(1970)この小説を原作にして、NHK大河ドラマ「椎の木は残った」が作られ、主演平幹二朗で人気を呼びました。

尚、吟関係で行け加えると、船岡城主の末喬で大野孤山と言う軍人・教育者がいます。
いつ船岡を離れたのかは不明ですが、私たちの持っている教本には、漢詩篇、普ⅡP128に「母の心」、「舟艇守の尺八」は愛吟集P83と新愛吟集P65に採り上げられています。

退役後は逗子市小坪に居住し、元理事長の松井岳洋とは住居も近く親交が深かったようです。
祖宗範木村岳風先生・渡辺岳神・鈴木岳楠とも親交があり、昭和30年2月15日、受刑者に対する補導ため、仙台刑務所で講演中に脳出血で蕊れました。享年74。


~宮城岳風会の作詞者、故村井一岳先生について
ここで、宮城岳風会の作詞者、故村井一岳先生について紹介したいと思います。
村井先生は昭和42年1月柴田町に私費を投じて「天心館」を建設、多くの青少年の指導・育成に尽力されました。
宮城県に岳風流の組織体が発足したのが昭和45年4月12日です。その顧問のひとりとしてとして村井先生がおられた。
先生は中国の大学で学び、漢学に特に造詣が深く、夏季吟道講座や指導者研修会等の講師として、懇切丁寧に解説指導され、吟道普及に大いに貢献されました。

仙南地区で発足一番目の教場(「船岡教場」昭和47年4月発足)の指導者として又、宮城岳風会の功労者として皆さんに惜しまれつつ昭和62年7月に逝去されました。
私達は東日本大震災まで、この由緒ある「天心館」で学べたことに感謝と誇りをもって今後も学び続けたいと思います。
                                宮城岳風会会報第103号より 船岡教場 小田島 岳政

[出典]樅ノ木は残った展望デッキ(写真)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AE%97%E8%BC%94#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A8%85%E3%83%8E%E6%9C%A8.jpg

2021年05月23日

令和3年仙台中央・南部地区吟道大会を開催しました

令和3年仙台中央・南部地区吟道大会を開催(令和3年5月12日)しました。仙台地区大会はコロナ禍に伴い、2年ぶり、半日での開催となりました。
開催にあたっては、これまで通り、新型コロナウィルス感染予防対策として、受付での検温・手指消毒、マスクのの着用、三密の回避等を図りながら実施しました。
会場では全員マスクを着用しましたが、檀上での吟詠時のみマイクにマイクシールドを設置したことで、マスクを外しての実施となりました。ただし、マイクシールドについては、約5名が吟詠する毎に消毒を行い感染予防に務めました。
(左の写真はマイクシールドを消毒している小野寺事業部次長です)

小地域大会は、会員の減少、高齢化の進行等により多くの地域でその運営に支障を来す状況となりました。また、地区吟道大会も仙台地区における幹事教場の依頼が難しい状況となり、事業の再編が求められてきたところです。
このため、本年から、会員の独吟発表の機会の確保と大会運営負担の軽減を図るため、小地域大会の開催義務化を廃止し、仙台、県北、県南の3地区の地区吟道大会を、仙台2地区、県北2地区、県南1地区の5地区に再編し、そのプログラム作成等の運営は事業部を中心に行うこととしました。
今回の大会はその第一回目の大会となりました。開催にあたり尽力頂いた事業部のみなさん、大変お疲れ様でした。(総務部 渡辺)

2021年05月16日

大崎市(大崎氏)の由来

平成18年古川市他6町が、合併し大崎市が誕生した。大崎市の名前は、室町時代から250年続いた豪族の大崎氏に由来する。
大崎市のルーツは、福井県の小浜である。小浜の斯波氏が奥州管領として東北に来て「斯波大崎氏」を名乗っていたが、その後「大崎氏」に改称した。大崎氏は、加美・玉造・志田・遠田・栗原を擁し「大崎耕土」と「金成耕土」を中心に35万石の大豪族であった。

時代を経て、戦国時代に豊臣秀吉の「奥州仕置」による反発から起きた「大崎葛西一揆」の鎮圧を豊臣秀吉から命ぜられた伊達政宗により、13代続いた大崎氏は滅ぼされた。大崎の遺跡は城、神社仏閣、累代の墓碑まで破壊され又、末裔も定かでなく後世「まぼろしの大崎氏」と言われるようになった。

大崎氏11代義直の末娘「としょ姫」は、大崎氏の分家筋である山形の最上義光の正室となった(大崎御前)。その最上義光の妹「義姫」が伊達照宗の正室となり長子伊達政宗を産んだ(お東の方)。即ち、大崎・最上・伊達は極めて近い姻戚関係にあった。大崎氏が滅亡した後、秀吉の命により政宗が米沢より岩出山に転封となり、大崎領を統治することになった。

伊達62万石の内、35万石はその大崎氏所領分を引き継いだものである。
伊達藩にとって重要な穀倉地帯である「大崎耕土」は、伊達一門の「岩出山伊達家」や「涌谷伊達家」等が統治した。「岩出山伊達家」の家祖は政宗の4男「伊達宗泰」であり、伊達11門の第8番目の家格であった。又、「涌谷伊達家」は第4番目の家格であった。

涌谷千代「伊達安芸宗重」は、昭和33年に上梓された山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」で一躍全国的に有名になった。
 「伊達騒動」を扱ったこの小説では大老酒井雅樂頭の屋敷で尋問中に宗重を刺殺した「原田甲斐が悪玉」で「宗重が善玉」と云う従来の史観とは逆の設定となっている。

さて、主家を失った大崎家臣団の大半は最上義光あるいは、伊達政宗に誼を通じて家臣に取り立てられたりして四散した。
13代250年で滅亡した名門「大崎氏」の名前は400年の歳月を経て「大崎市」として再び蘇ったのである。尚、大崎伊達氏と開墾・整備されてきた大崎耕土は平成29年に日本で9番目になる「世界農業遺産」に認定された。

出典『疾風伝遥かに』『戦国時代の大崎家家臣団』
『伊達騒動と伊達安芸宗重』『涌谷の文化財』
                                           古川第三教場・涌谷教場  幸頭英風



大崎耕土「世界農業遺産」

大崎地域の1市4町(大崎市、涌谷町、美里町、加美町、色麻町)のエリアが世界農業遺産および日本農業遺産として認定されています。本地域は、江合川、鳴瀬川の流域に広がる野谷地や湿地を水田利用することで、水田農業地帯として発展してきました。

その一方で、東北の太平洋側に特有の冷たく湿った季節風「やませ」による冷害や、山間部の急勾配地帯から平野部の緩勾配地帯に遷移する地形的要因による洪水、渇水が頻発している地域でもあります。

しかし、本地域の農家は、厳しい自然環境下で食料と生計を維持するため、「水」の調整に様々な知恵や工夫、多くの苦労を重ねながら、稲作を中心とした水田農業を発展させ、大崎耕土」と称される豊饒の大地を継承してきました。
                                       (大崎市のホームページより 広報)

2020年12月29日

【健康】のどや舌の筋肉を鍛える「声出し」

のみ込むときに使うのどの筋肉は、40歳代から衰え始めるといわれています。
のみ込む力を維持するために、喉頭蓋を支える筋肉を鍛える体操、のどや舌の筋肉を鍛える「声出し」を行いましょう。

のどの筋肉が衰えて、のみこむ力が弱くなると、「誤嚥性肺炎」が起こりやすくなります。
誤嚥性肺炎は、食べ物や唾液に含まれた最近が誤嚥により肺に入って増殖し、炎症が生じる病気です。

毎日の食事は、生きがいをもたらす要素の1つです。
食事をおいしく食べることは、健康長寿につながります。


<のどや舌の筋肉を鍛える「声出し」>

 ①唇を閉じてから、「パ、パ、パ、パ」と発する。※「パ」「タ」で唇と舌の筋肉を鍛える

 ②舌を上顎にしっかりとくっつけて、「タ、タ、タ、タ」と発する。

 ③のどの奥に力を入れて、「カ、カ、カ、カ」と発する。※「カ」で食道につながるのどの奥が動く

 ④舌を丸め、舌先を上の前歯の裏につけて、「ラ、ラ、ラ、ラ」と発する。※「ラ」で食べ物をのどに送る、スムーズな舌の動きを鍛える

 ⑤「パ、タ、カ、ラ」と4音続けて初する。

 ここまでを1回とて、10回1セットとして、1日3セットを目安に行う。

                                                  出典:NHKきょうの健康

2020年11月03日

【健康】アンドルー・ワイル博士が提唱する「4-7-8呼吸法」

「活動報告」に掲載の「会長の講話 ~腹式呼吸で健康づくり 健康寿命を10年延ばす腹式呼吸~」に関連した「4-7-8呼吸法」を紹介します。

「4-7-8呼吸法」は、アンドルー・ワイル博士が、人間に備わる自然治癒力を引き出す最も簡単な方法として考案した呼吸法です。副交感神経が優位になりリラックスした状態になります。

ワイル氏が来日した際に、直々にこの呼吸法を教わり、安倍晋三前首相も実践していると以前報道されたこともあり、ご存じの方も多いと思います。

<4-7-8呼吸法のやり方>
楽な姿勢で座るか、仰向けになって行ないます。この呼吸をしている間は、舌の先を上歯の裏側に軽くつけておきます。
まず、「フゥー」という音をたてながら、口から息を全部吐き切ります。

(1)口を閉じ、こころの中で1から4まで数えながら、鼻から静かに息を吸います
(2)4まで数えたら、息を止め、止めたまま1から7まで数えます
(3)7まで数えたら、「フゥー」という音をたてながら、ゆっくりと1から8まで数えながら息を吐き切ります
これで1サイクルです。注意する点としては、吸気を鼻から静に、呼気は音をたてて口から行うことだそうです。

なお、「4」「7」「8」の数字は、「秒」ではなく長さの「比率」を指します。

最初の1か月は一度に4サイクル以上は行わない方が良いそうですので、無理をしないでください。
苦しく感じない程度に深く呼吸ができるよう、数えるときの速さはご自身で調節して実践してみましょう。ストレスを感じた時、就寝時に行うこともおすすめだそうです。


アンドルー・ワイル博士:
アメリカ合衆国の健康医学研究者、医学博士。伝統中国医学など代替医療の伝統も取り入れ、人間に本来備わっている自然治癒力を引き出すヘルスケア・システムである統合医療を提唱している。
(Wikipediaより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB

2020年11月01日

【宮城文学散歩】大伴家持 =黄金山神社(涌谷町)=

「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」反歌一首

  須売呂岐能(すめろきの)
    御代佐可延牟等(みよさかえむと)
  阿頭麻奈流(あずまなる)
    美知能久夜麻爾(みちのくやまに)
    金花佐久(くがねはなさく)

「おくのほそ道」石の巻

芭蕉は、山深い鄙(ひな)の地と思っていた石巻日和山に来て数百の回船が集まり、人家は所狭しと立て込んで、炊煙が立つさまを見て驚き、感銘を受けました。
その賑やかなさまを導くために「こがね花咲とよみ奉たる金花山海上に見わたし」と万葉の歌人・大友家持が詠んだ「天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に黄金花咲く」から引用しています。実際には、日和山から金華山は見えませんが、文章に登場させています。
このように江戸時代まで、一般的には金華山が日本初の産金の地と考えられていました。

日本初の産金の地「涌谷」-黄金の国ジパングのはじまり-

18世紀初め、仙台の儒学者佐久間洞厳は、大友家持の歌の「金花佐久」から金華(花)山の地(牡鹿郡)が往古の黄金山神社と解釈しました。
しかし、19世紀初め、伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)の国学者・沖安海(おきやすみ)は、史料、出土品、地理的環境などを検証した上で涌谷説を提唱しました。

昭和32年東北大学文学部考古学教室・伊藤信雄教授による涌谷町・黄金山神社周辺の発掘調査が行われ、出土した瓦や建物跡から天平年間(729~766年)頃に六角円堂と考えられる仏堂が1棟建てられていること、付近の川から砂金が採取できることなどから日本初の産金の地が涌谷であることが実証されました。
そして昭和42年、「黄金山産金遺跡」の名称で国史跡に指定されました。

令和元年5月20日には文化庁から、宮城県涌谷町・気仙沼市・南三陸町、岩手県陸前高田市・平泉町の2市3町で申請した「みちのくGOLD浪漫-黄金の国ジパング、産金はじまりの地をたどる-」が、「日本遺産」の認定を受けました。

今でも箟岳山の川や沢で砂金が採れるそうです。黄金山神社に隣接する天平ろまん館で、「椀がけ法」による砂金採りの体験ができます。興味のある方はいかかでしょうか。

聖武天皇が盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立の詔を発す

聖武天皇の時代、たび重なる地震、疫病(天然痘)、天候不順、飢饉などの禍から、脱しようと遷都を繰り返していました。今と似たような困難な時代だったようです。
そのような中、聖武天皇は仏教の力によって国家を鎮護するという「鎮護国家」の思想に基づいて、天平13年(741年)に全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を、天平15年(743年)には盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立の詔を発します。
聖武天皇が信仰した「華厳教」の教えによると「盧舎那仏」の仏身から放たれる光明が人々を救うとされていました。
計画された盧舎那仏は鍍金することで、永遠に照らし続ける高さ18mの世界最大となる金銅の大仏でありました。

大仏建立にあたっての最大の課題点は、大仏が放つ永遠の輝きを鍍金によって完成させることでした。そのための多量の金を国内から集める見込みがまったくないまま、建立工事は進んでおり、大仏の完成が危ぶまれていました。
そのような中、天平21年(749年)、陸奥国守百済王敬福(むつのかみくだらのこにきしきょうふく)は、小田郡で金が算出したことを報告し、黄金900両(約13Kg)を奈良の都に献上します。
※百済王敬福は古代朝鮮半島にあった百済国の子孫。

万葉集に登場する地名で最北・最東の歌

小田郡の産金を慶ばれた聖武天皇は、年号を天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改めて、詔を発しました。
天平時代の万葉歌人として有名な大伴家持は、その詔に応じて、天皇の御代を讃え産金を祝う長歌1首と反歌3首「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」を「万葉集(巻十八)」に残しました。
この歌で家持は産金の地を長歌には、
「鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に金ありと奏し賜へれ…」と詠んでおり、
万葉集に登場する地名の中で最北、最東の歌となっています。

家持がこの歌を詠んだときは、越中国守(現在の富山県)として任地にいましたが、晩年は陸奥按察使鎮守将軍(むつあぜちちんじゅしょうぐん)として多賀城に赴任し、没しています。
文献等の記録にはないそうですが、家持が黄金山神社を訪れていたかもしれません。
因みに万葉集に詠まれた地名の西限はみねくらの崎(長崎県南松浦郡三井楽町)、南限は薩摩の迫門(鹿児島県阿久根市と長島の間)です。

宮城岳風会50周年記念大会で「天皇の」を吟じます

和歌「天皇の」は宮城岳風会50周年記念大会にて上演予定の構成吟『おくの細道』より「みちのく旅めぐり」の吟題の一つとなっています。令和3年2月7日(日)の開催を予定しています。
会員のみなさまの記念大会への参加をお待ちしております。


出典:わくや万葉の里「天平ロマン館ガイドブック」
   新版 おくのほそ道 現代語訳/曽良随行日記付き(角川ソフィア文庫)
   奥の細道を歩く(JTBパブリッシング)、涌谷町ホームページ

2020年10月14日

【宮城文学散歩】土井晩翠 =晩翠草堂(仙台市)=

詩人、英文学者として著名な土井晩翠の旧居である。昭和24年(1949年)から亡くなるまでここで過ごした。
晩翠と言えば盟友の滝廉太郎が曲を付した「荒城の月」(明治34年「中学唱歌集」)が有名だが、この碑石は草堂ではなく青葉城跡にある。歌詞は七五調で、第一節はおなじみの、春高楼の花の宴…で始まる。昭和27年夏の詩碑建立を見届けるとまもなく晩翠は世を去った。

草堂の表通りには「天地有情」という石碑が建っている。
これは詩人晩翠の名を不朽のものにした明治32年(29歳)刊行の処女詩集の名前である。この詩集中の大作「星落秋風五丈原」は同じ集中の「暮鐘」と並ぶ白眉とされた。

明治30年頃我が国の詩壇で双璧と言われた者がいた。『若菜集』を刊行した島崎藤村と『天地有情』を出した土井晩翠である。晩翠の詩は「星落秋風五丈原」に見るように男性的で国士型の硬派の文学である。それは藤村の優婉ともいえる女性的抒情とまさに対照的であった。

日清戦争は明治28年に日本の勝利のもとに終わっていたが、青年には、勇壮活発な高潮した感情の中に人生の悲痛を詠おうという詩歌の機運が起こりつつあった。晩翠が漢詩調の詩人として名を現すようになったのはまさにこの時代である。
晩翠は「星落秋風五丈原」の主人公諸葛孔明を通じて、他者に礼儀、恩義、信義、さらに人間の運命と死について熱く語っている。

この詩は、中国の魏・蜀・呉の三国時代(3世紀中葉)の忠臣諸葛亮孔明の悲劇的生涯をうたいあげた漢詩調の長編抒情詩である。漢王の後裔であった劉備が関羽や張飛と結んで、そのころ野に在った孔明に礼を厚くして軍師に迎え、呉および魏に対抗して蜀の国を立てた。だが劉備は在位わずか三年で病死する。孔明は劉備の恩義を決して忘れず、劉備の継嗣劉禅を助け、六度目の征魏の軍を起こして五丈原に出陣した。そこで孔明は重い病を患い、やがて悲劇の生涯を閉じる。

武運拙く危篤におちいった諸葛孔明の忠義の心情を見つめながら、三国時代の歴史に人の世の変転と運命を思い、晩翠の人生観によって色鮮やかに織り上げた譚詩的抒情詩である(参考、 野田宇太郎、土井晩翠集解説、角川、昭和四七年)。
詩の一部は 日本詩吟学院編、吟詠教材シリーズ2、「御製歌・今様・俳諧紀行文・近現代詩・慶弔詩歌」にある。詩の第一章で繰り返される「丞相病篤かりき」は、次第に詠唱者を悲しみに誘い込む。
                            (泉が丘教場 南部青風)

2020年09月01日

【健康】会長の講話 ~腹式呼吸で健康づくり 健康寿命を10年延ばす腹式呼吸~

と き 令和2年8月24日(月) 13:00~
ところ 宮城県仙台市青葉区花京院1-3-2  仙台市シルバーセンター
演 題 腹式呼吸で健康づくり 健康寿命を10年延ばす腹式呼吸 
講 師 宮城岳風会 会長 渡会岳弘

腹式呼吸は肉体的・精神的健康をもたらします

年を重ねるとともに,心身ともに衰えていくことは当たり前のこと、それを少しでも遅らせ、健康に働き続けることには、少しの心がけと知識で必要です。

一つが腹式呼吸です。腹式呼吸は血圧を下げたり、気力を高めたりする他に自律神経にとてもよく働きます。

また大きい声を出す、笑顔を作ることで、ストレス解消にもなります。
血流を良くし、血管を若返らせる、リンパ液の流れを良くするなど体液の流れを良くし、免疫力を高めます。詩吟は腹式呼吸で発声します。

今、新型コロナウィルスで休んでいるときだから今一度、皆さんに詩吟の効能をお知らせします。

◆腹式呼吸の効能◆

<医学面から見た効能> 
 ●腹式呼吸は血圧を下げます
 ●腹式呼吸は自律神経の活動を助けます
 ●腹式呼吸は活力やエネルギーを生み、気力を充実させます
 ●腹式呼吸は血流を良くし、脳の活性化を促します
 ●腹式呼吸は免疫力を高めます
  ※諏訪シニア協賛会健康講座より抜粋

◆腹式呼吸の練習の仕方◆

●お腹を膨らませて鼻で息を吸う、口で吐く
●お腹に手を置き丹田を意識する
●腹式呼吸で吸った息は丹田に溜めることで気力、活力となります
●丹田を鍛える練習 息は長く吐く。「長息=長生きに通ず」
●十分に息を吸い込んだらすぐに吐き出すことをせずに、しばらく息を止めて息を
 のみ込むようにして丹田に落ち着かせます
 息を吐く時は副交感神経が働いて気持ちが落ち着き、吸う時は交感神経が働い
 て逆の状態になります
 呼吸数が減り体や脳の活性化につながります

◆腹式呼吸と組み合わせながら行う健康運動◆

<免疫力を高める運動・誤礁を防ぐ運動>
 ●唾液を出す運動・舌の運動 舌を出して上下.だして左右 回転 舌根を刺激する
  ようにしましょう

 ●耳の前の頬から耳下にかけてのマッサージ、顎のマッサージで唾液の分泌を促す
  ⇒唾液は口内雑菌から身を守り、免疫力を高めます

<血管を若返らせる運動>
 ●吐く呼吸に合わせながら血管を伸ばす
 ●伸ばしながら、太もも、側筋他のマッサージ

<幸せを呼び込む運動>
 ●口角を上げる練習
 ●大きな声でワシハッハッハー
 ●ほほの肉を上げる。歯を見せる形がよい
 ●笑顔は健康の元、意識して笑顔を作りましょう

<鼻呼吸をしましょう>
 ●鼻呼吸は空気中の細菌やバクテリアが除去され、喉を守り免疫力を高めます
 ●鼻呼吸は心臓発作や脳卒中を防ぐ一酸化窒素を増やします
 ●鼻腔で作られる一酸化窒素を増やすにはハミングが効果的です

普段の取り組みが大切です。毎日の暮らしの中で、ちょっと健康に目を向けるだけで大きな成果を得ることができます。
私たちは毎日2万回もの呼吸をしているそうです。それにちょっと工夫を添えて変えていきましょう。
それによって年齢や過労などにより衰えがちな気力、活力などの精神的な部分の衰えを高めるとともに、肉体的な筋力の衰えを防ぎ、血圧を下げたり、ストレス解消などに大きく役立ちます。

2020年08月24日

吟道の目的は人格完成、学院の吟は気魄・雄渾

吟道奥義抄を学院創立80周年を契機に作り直しをしました。
この中で大切なことは、修練の順序は、節、声、品です。その中でもっとも大切なのは、品、品位、品格、第二に魄、三番目に節、4番目に声、品格は10年、20年かけて学んでいくものです。  

私たちの吟道の目的は人格完成へとそれが目的です。
学院の正統吟は二句三息をいいます。岳風会の吟は、気魄、雄渾である。そう言う魂のこもった吟であることを自覚してほしい。吟法、吟調はあとで確認してください。吟法二句三息、引き止め、揺り止め、上げ止め、下げ止め、余韻の最後は止める。

漢詩は、素読を何回か繰り返し、自然と中身がわかり、音域が掴めるようになる素読の大切さを認識して欲しい。俳句、和歌、俳諧歌は朗読と言い、素読とは言いません。

島崎藤村が講演の中、檀上でなかなかしゃべらなかったエピソードもあるように、間が大切である。一瞬無になる時間が必要です。

アクセントは高いか低いか、ロボットのような拾い読みではない。大切なのは抑揚です。声を出さないことによって吟が生きることもあります。CDを聞いてきた人もいると思いますが、参考吟であって、絶対ではありません。

学院は宗家制ではないので、多少の幅があってもよい。コンダクターの使い方は、頭を出す程度、弾き語りでは話にならない。学院の吟は気魄、雄渾と言うのは、朗詠に反映されている。

                            ~令和2年7月22日(水)にに行われた第2回師範位研修会の会長講話より~

2020年07月26日

令和2年第2回師範位研修会を開催

と き 令和2年7月22日(水) 10:00~
ところ 宮城県仙台市青葉区旭ヶ丘3-27-5  日立システムズホール仙台

新型コロナウィルスの蔓延に伴い、これまで延期していた師範位研修会を、関係各位の努力により開催することができました。大変お疲れ様でした。

本研修会を開催するにあたり、新型コロナウィルスの感染予防対策として、感染対策グッズである
「検温器」、「消毒液」、「フェースシールド」の事前準備、研修日当日は、会場入り口(2か所)での検温の実施、その後の手指消毒を参加者に行っていただきました。


会場では、密を避けた座席配置とし、研修課題6吟について研修に取り組みました。 フェースシールドをしての研修は初めてでしたので、使用にはチョットした慣れが必要であると感じました。今後は、このような形態での研修が通常になるのでしょうか。早期に収束して欲しいものです。 研修の模様は、こちらからをご覧ください。




2020年07月26日

【宮城文学散歩】島崎藤村 =仙台東口初恋通り(仙台市)=


この初恋通りは、仙台市宮城野区の仙台駅東口駅前広場から、島崎藤村(以下、藤村)広場まで続く歩行者専用道路(BiVi仙台駅東口と交番の間を北にむかう通り)

藤村は東北学院の教師として仙台に赴任し、現在の塩釜神社(名掛丁塩釜神社)の地にあった三浦屋に下宿していた。この三浦屋で書かれたのが藤村の第一詩集『若菜集』で、その詩集を代表する詩が「初恋」である。

名掛丁塩釜神社に繋がるこの道は、この「初恋」という詩に因んで命名されている。
※出典:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%81%8B%E9%80%9A%E3%82%8A






李白に五言古詩で30句の「長干行」という漢詩があります。この冒頭4句に“妾が髪初めて額を覆ふとき、花を折って門前に劇る、郎は竹馬に騎って来り、牀を繞って青梅を弄す“とある。


(詩を読むと、そぞろに藤村の初恋」という詩を想起させる。藤村がこの「長干行」から発想を得たか否かは明らかではないが、とにかく盛唐と明治末年のロマンチシズムの一致はおもしろいと思う)と。以上「中国名詩鑑賞辞典」の185ページに著者山田勝美先生が書いています。

この「初恋」は平成31年3月発行、日本詩吟学院の近現代詩として教本に取り入れられています(78ページ)補説などで詳しい解説がありますので参照下さい。次の歌碑は初恋通りに建っているものです。

なお、「初恋」は1971年発売の抒情歌謡として舟木一夫が歌っており、60代以上の男性のカラオケファンにとっては根強い人気曲です。

因みに、この曲は私もお気に入りの一曲です初恋通りのその先の藤村広場には「日本近代詩発祥の地」と題字がある藤村の記念碑があります。

平成16年8月の除幕式には当会の卓地岳淳顧問が列席し、その式典の模様が月刊誌「吟道」に詳しく掲載されています(平成16年12月号「吟の広場」)
                        (富沢教場 山根春岳記)

 

2020年07月26日

「福島岳風会創立60周年記念吟道大会」を見学しました

と き 平成31年4月7日(日)  9:30~
ところ  福島県福島市春日町5-54 とうほう・みんなの文化センター

◇式典
◇第一部 支部発表吟  ファミリー構成吟「霊峰富士を詠う」
◇第二部 招待者吟詠  吟剣詩舞道福島県総連盟宗家会長先生方
◇アトラクション    津軽三味線演奏
◇第三部 構成吟    「黎明 -日本文学の夜明け-」
◇第四部 招待者吟詠  東北南三県 認可団体会長
◇第五部 大会役員吟詠 部長代表 支部長代表 正副会長 名誉会長


2019年04月11日

楽友ネットワーク(宮城学院女子大学音楽リエゾンセンター発行)に出吟の模様が掲載されました

楽友ネットワーク(宮城学院女子大学音楽リエゾンセンター発行)に宮城学院クリスマスマーケットの模様が掲載されました。≫楽友ネットワーク Newsletter(No.5)へ

き 平成30年12月16日(日) 13:30~
ところ 仙台市青葉区桜ケ丘9-1-1 宮城学院女子大学 大学講堂
主 催  宮城学院女子大学  音楽リエゾンセンター


楽友ネットワーク Newsletter No.5(2019年3月版)より転載
編集/発行
宮城学院女子大学 音楽リエゾンセンター MLC

2019年03月10日

「吟道会館」を訪問しました

◇訪問日◇ 平成30年11月28日(水)

[住  所]〒110-0003 東京都台東区根岸3-3-4
              吟道会館
      TEL 03-3875-0201(代) FAX 03-3875-0207
      https://www.gakufukai.or.jp

2018年12月01日

宮城県立涌谷高等学校創立記念講演」受講生よりの感想文の紹介

大橋澄岳理事が県立涌谷高等学校創立99年周年記念行事にて記念講演

大橋澄岳理事が平成30年4月18日に県立涌谷高等学校創立99年周年記念行事にて全校生に向け、記念講演をされました。

社会人として独立し、荒波に立ち向かえる人間になる為には、若い人にかけている”感謝の気持ち”を持つことの大切さを、漢詩「春望 杜甫」、和歌「天野の原ふりさけ見れば 阿倍仲麻呂」、俳句「夏草や 芭蕉」、近代詩「雨ニモマケズ 宮沢賢治」の吟詠をおり交えて講演をされました。大好評にて、高校生一同より感想文が届けられました。その内の一通をご紹介いたします。

今後の若い方々への詩吟のPRと会員増強の一助に活用願えればとの趣旨にて掲載いたしました。(広報部)


聴講生よりの感想文
   雨ニモマケズ 詩吟との出会い            3年4組21番 岡村玲菜

私は、大橋澄江様の詩吟を聴き、とても感激し鳥肌が立ちました。大袈裟ではなく、それほど、素晴らしい詩吟でした。

私は一度、吟詠剣詩舞を観たことがあります。それは、全国の吟詠剣詩舞をしている高校生達の大会でした。剣詩舞なので、視覚と聴覚でその詩の情景を感じる事がで出来ました。
ですが、今回の詩吟では、聴覚だけでそれを感じることが出来ました。更に、私達が習った詩などを吟じていただけたので、意味や背景を知っているので楽しめました。
高校生の詩吟を聴いたときは、勢いがあり、若々しい感じで、初めて聴いたという事もあり、素直に凄いと感じました。他にも、好きな女性アーティストの詩吟を聞いた時には、声が通っていて、綺麗だと感じました。

ところが、大橋澄江様の詩吟では、その両方が感じられ、更に丁寧で安定しており、ただ吟じているだけでなく、作者の気持ちや想いを表現しているように感じられ、さすがプロだなぁと思いました。

このような機会がないと詩吟を拝聴する事がないので、とても貴重な時間だと思いました。また、題名にもある宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のように、サウイウモノニワタシハナリタイ。


同窓会事務局よりの感謝文

この度は、開校記念講話の講師としてご講演を賜り厚く御礼申し上げます。私自身も心に響き渡る詩吟を鑑賞し、思い出に残る講演会となりました。

大橋様の今後益々のご活躍をお祈りしています。この度は誠にありがとうございました。
                                 (宮城県涌谷高等学校 同窓会事務局 千葉良伸)


2018年09月01日

「古典の日」吟詠の集いで上演しました~おくのほそ道 宮城・山形を詠う~の詩文等を掲載しました

【吟詠の集いの主旨】
吟詠の集いは、文部科学省により設けられた「古典の日」にちなんで日本の伝統芸能をみなさまに知って頂くため、宮城岳風会が開催しています。

【構成吟の概要】
「おくのほそ道 宮城・山形の詩歌を詠う」をテーマとして「漂白の詩人」と言われた松尾芭蕉が現在の宮城県・山形県で詠んだ俳句や紀行文と関連する著名な歌人の漢詩や和歌などをナレーション入りの構成吟として詠じました。

~ おくのほそ道 宮城・山形の詩歌を詠う ~

松尾芭蕉が白河の関を越えはるか遠いみちのくの宮城・山形へ江戸を旅立ったのは元禄二年の陽暦五月十六日であり、いわゆる「おくのほそ道」の旅です。

芭蕉は「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」と書き始め、西行法師、能因法師、源義経などに想いを馳せ多くの歌枕を訪ねるのです。中国の有名な詩人、李白や杜甫など風雅の道の先人たち同様に芭蕉も雲や風などの自然の動きに誘われて旅立ったのでしょう。

六月の五月雨時期に白石・名取を過ぎて岩沼に着きます。岩沼には「二木の松」とも呼ばれる、名勝「武隈の松」があります。尾芭は、江戸から三月をようしてこの二木の松を見ることができた感慨を句にしています。

  武隈の松   芭蕉

  桜より 桜より
   松は二木を 三月越し
   松は二木を 三月越し

名取川を渡って、伊達家六十二万石の城下町仙台に入りました。おりしも家々に端午のあやめを葺く日でありました。この土地の俳人で絵描き職人の加右衛門という人物が、あやめ草を思わせる紺の染緒をつけた草鞋を二足餞別にくれました。この風流心に対し、句を詠んでいます。

  あやめ草   芭蕉

  あやめ草 足に結ばん
   草鮭の緒
    足に結ばん
   草鮭の緒

 

松尾芭蕉は仙台に四・五日間留まり加右衛門の案内で名所旧跡を見物したといわれます。伊達政宗侯が築城した青葉城も目の辺りにしたことでしょう。

青葉城は当時流行した天守閣は無く、日本の最も堅固なる城のひとつとして、今も四季折々、美しいたたずまいを見せ、仙台人の心のよりどころとなっています。
明治の漢詩人でる松口月城が、英雄伊達政宗を偲んで「青葉城」という詩を詠んでいます。

松尾芭蕉は仙台に四・五日間留まり加右衛門の案内で名所旧跡を見物したといわれます。伊達政宗侯が築城した青葉城も目の辺りにしたことでしょう。

青葉城は当時流行した天守閣は無く、日本の最も堅固なる城のひとつとして、今も四季折々、美しいたたずまいを見せ、仙台人の心のよりどころとなっています。
明治の漢詩人でる松口月城が、英雄伊達政宗を偲んで「青葉城」という詩を詠んでいます。

  青葉城   松口月城

  史跡尋ね来たる青葉城
   今見る残壁緑苔の生ずるを
  大鵬碑畔夕陽輝く
   馬上の金人情を引くこと多し

仙台を後にした芭蕉は多賀城に赴き、平安時代に西行法師によって詠まれた「壷の碑」を訪れ、「泪も落つるばかり也」と感動しています。

多賀城は大和朝廷の拠点として、幾多の英雄が活躍した舞台であり、明治時代には旅を愛した歌人長塚節が多賀城の当時を偲んだ和歌を詠んでいます。

  多賀城跡   長塚節

  朝靄の 夛賀の城あと 丘の上
   初穂のすすき 雨はれんとす
  朝靄の 夛賀の城あと 丘の上
   初穂のすすき 雨はれんとす

多賀城を後にして芭蕉は塩竃に入り、「末の松山」「籬が島」などの東歌を偲び、みちのくに伝わる伝統芸能に感動しています。

塩釜では句を作らなかった芭蕉は、奥州一の宮、東北随一の大社である鹽竈神社の荘厳・華麗な社殿に賛嘆し、紀行文「おくのほそ道」に名文を残しています。

  鹽竈明神   芭蕉

  早朝鹽竈の明神に詣ず。
  国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、
  石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかがやかす。

  かかる道の果て、塵土の境まで、神霊あらたに
  ましますこそ、吾が国の風俗なれと、いと貴けれ。
  神前に古き宝塔あり。

  かねのとびらの面に文治三年和泉三郎寄進とあり。
  五百年来のおもかげ、今目の前にうかびて、
  そぞろに珍し。

  かれは勇義忠孝の士なり
  佳命今にいたりてしたわずといふことなし。

  誠に人能く道を勤め義を守るべし、
  名もまたこれにしたがふといえり。

「おくのほそ道」への旅立ちにあたり「松島の月まず心にかかりて……」と詠んだ芭蕉は松島があこがれの地であり、「扶桑第一の好風」と評しています。

芭蕉に同行した曾良が「松島や鶴に身を借れほととぎす」と詠んでいますが、芭蕉は松島の絶景に感動したあまり句を作ることができなかったと言われています。


松島の緑の松をいただいた島々と浅い海が作り出す景観は壮麗であり、多くの先人たちにより歌や詩で読まれてきました。

江戸時代の漢詩人である大窪詩仏もまた尽きることのない島々の様子を詠っています。

  松島   大窪詩仏

  奇岩怪厳棹を回してゆく
   幾人か此処に来たりて吟評費やす
  猶お走馬灯中の影の如く
   一島纔かに過ぐれば一島生ず

松島を後にした芭蕉は、平泉を目指し「姉歯の松」「緒絶えの橋」などの歌枕を探したが、道を間違えて、石巻に出てしまったようです。

石巻は、慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」の出発地でもありますように、江戸時代には貿易港として大発展を遂げました。芭蕉は数百の運送船が停泊している石巻港に感動してしまったようです。

当時の石巻を偲び、明治時代の歌人齋藤茂吉が和歌『石巻』で詠んでいます。

  石巻   齋藤茂吉

  石巻より 海をとほらず 運河にて
   米運びしと 聞けば悲しも
  石巻より 海をとほらず 運河にて
   米運びしと 聞けば悲しも

石巻の港に出た芭蕉は、金華山から金が産出して朝廷に献納されたとき、万葉の歌人大伴家持が詠んだ祝歌を紹介し『「こがね花咲く」と詠みて奉りたる金華山』と紀行文に書き残しています。(注)

それでは大伴家持が詠んだ『陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首』です。

  陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首   大伴家持

  天皇の 御代栄えむと
   東なる 陸奥山に 黄金花咲く
  天皇の 御代栄えむと
   東なる 陸奥山に 黄金花咲く

(注)金華山は天平勝宝元年(749)4月1日陸奥国小田郡から黄金が貢献され(続日本紀)、その産金地であるとする考えが一般的であったが、昭和32年(1957)の発掘調査の結果、真の産金地は遠田郡涌谷町涌谷の黄金迫にある黄金山神社付近(右写真)と確認された。遠田郡涌谷町涌谷の黄金迫にある黄金山神社付近(上写真)と確認された。

「おくのほそ道」の最北端となる平泉、そこには藤原三代の栄華の跡として中尊寺金色堂があります。
金色堂は藤原時代の建物として現存するものであり、幕末の漢詩人、大槻盤渓は奥州平泉を懐古した詩を詠んでいます。

  平泉懐古   大槻盤渓

  三世の豪華帝京に擬す
    朱樓碧殿雲に接して長し
  只今唯東山の月のみ有りてて
   來たり照らす當年の金色堂

松尾芭蕉が平泉を訪れた主たる目的は、藤原三代の栄耀と義経を偲ぶことであり、その史実を回想しながら「都が戦に敗れても山河は残っており、都に春の季節がやってきて草や木が生い茂っている」と
中国唐時代の詩人杜甫の詩を胸に、「夏草や兵どもが夢の跡」と涙を流しました。

  春望   杜甫

  国破れて山河在り 城春にして草木深し
  時に感じては花にも涙を濺ぎ
  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
  蜂火三月に連なり 家書万金に抵る
  白頭掻けば更に短く 渾べて簪に勝えざらんと欲す

平泉を出た芭蕉は南下して出羽の国に向かいます。出羽の国は現在の山形県、ここには出羽三山と立石寺の二つの聖地があり、これをつなぐのが「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ急流・大河の最上川があります。

最上川は東北、山中に発して日本海へそそぐ大河で、コメなどの物産を舟で酒田港まで運ぶ重要な交通路でしたが、芭蕉が訪れた時には五月雨で増水して、川下りが危険なほど激流と化していました。

その様子を詠った芭蕉の紀行文『最上川』です。

  最上川   芭蕉

  最上川は 陸羽より 出でて、山形を 水上とす
  碁点・隼などといふ おそろしき難所あり。

  板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る
  左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。

  これに稲積みたるをや、稲船といふならし。

  白糸の滝は青葉の隙々におちて
  仙人堂岸にのぞみて立つ。
  水みなぎって舟危うし。

芭蕉は尾花沢で紅花問屋を営む清風という俳人に長旅の苦労をねぎらってもらった。

この間、山形領に、慈覚大師が立てた立石寺あり、一見の価値ありとして参詣しました。日没にはまだ間のある夏の午後で、「岩上に建てられた十二ある御堂はどれも扉を閉め切って物音ひとつしない。岩場のふちを回ったり、岩の上を這ったりしてようやく本堂を拝むことができた。ひっそりとしずまりかえった素晴らしい風景の中で、ひたすら心が澄みゆくのを感じた」と詠んでます。

  立石寺   芭蕉

  山形領に 立石寺といふ山寺あり。
  慈覚大師の開基にして、殊に 清閑の地なり。

  一見すべきよし、人々の勧むるによりて、
  尾花沢よりとって返し、その間 七里ばかりなり。

  日 いまだ 暮れず。

  麓の坊に宿借りおきて、 山上の堂に登る。

  岩に巌を重て山とし、 松栢年旧り、
  土石老いて 苔滑らかに、
  岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず
  岸を巡り岩を這ひて仏閣を拝し、
  佳景寂寞として心澄みゆくのみ覚ゆ。


  閑かさや   芭蕉

    閑かさや 閑かさや
      岩にしみ入る蝉の声
    岩にしみ入る蝉の声

芭蕉の「おくのほそ道」の出発当初は、みちのくの歌枕を訪ねて、心の世界の展開を試みることだったのですが、ただの旅行記としてではなく、芭蕉の人生をすえて読むことによって、悲しみや苦しみに満ちたこの世界をどう生きていったらいいのか? と問い続ける姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
最後に栄枯盛衰のはかなさを詠んだ水野豊州の漢詩『月夜荒城の曲を聞く』と土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の『荒城の月』です。

  月夜荒城の曲を聞く   水野豊州

   榮枯盛衰は 一場の夢
   相思恩讐 悉く塵煙となる
   星移り物換わるは 刹那の事
   歳月 匆匆 逝いて還らず
   史編讀み續く 興亡の跡
   弔涙幾回か 凡前に灑ぐ
   今夜荒城 月夜の曲
   哀愁切切として 當年を憶う

  荒城の月    [作詞]土井晩翠 [作曲]滝廉太郎

   春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
   千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ

   秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
   植うるつるぎに照りそいし 昔の光いまいずこ

   今荒城のよわの月 変らぬ光誰が為ぞ
   垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし

   天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなお ああ荒城のよわの月



 <写真提供>宮城県観光課 岩手県観光協会 山形県庁広報室 会津若松市役所秘書広聴課

 

2016年12月26日

宮城岳風会会歌の文意を掲載しました

  吟 大場岳凌先生(宮城岳風会二代目会長)

一、地を捲く吟風修禊の天
  萩花客を待つ宮城の原
  史は此の處に傳ふ蘭亭の会
  鎮守の将軍雅賢を集む

〔文意〕
 地を捲いて起る吟の風は、天をも洗いすすぐかのように清らかにわたっている。
 ハテ、この地は何れのところであろうか?
 ここは萩の花が咲き乱れて、露重く君を待つ風情の宮城野である。
 中国の歴史に伝えられる蘭亭の会は、日本詩吟学院岳風会認可宮城岳風会に受けつがれた。
 昔、宮城野には睦奥の鎮守府が置かれていたが、歴代の鎮守・将軍は、自らもそうであったように
 高い気品とみやびやかさを具えた賢人たちを集めた由緒の深い土地柄である。
 宮城岳風会の誕生誠に宜なるかなである。

〔備考〕
 古歌に日く、「もとあらの みやぎのこはぎ つゆおもみ かぜをまつごと きみをこそまて」
 蘭亭の会 蘭亭は中国浙江紹興県の西南に在り、晋の穆帝の永和九年、春、三月三日
 当時の名士四十一人が蘭亭に集まり、曲水に觴(さかづき)を流して禊事を修めて、皆詩を賦した
 と伝えられる会

二、宮城の原野精華粋まる
  人傑れて地霊れて正気高し
  二世の節全道統を傳ふ
  古今の大義英豪を尊ぶ

〔文意〕
 宮城原には山の精、川の精、雪の華、花の華、この世のすぐれたよいものが、すべて集まっている。
 人はすぐれ、地はすぐれて、正気が高く、張り満ちている。
 六百五拾年の昔、北畠親房、顕家父子は二代にわたる節義を完うして、人間として世の中に
 践み行なうべき道筋を明らかに後世に傳えられた。
 したがって、天地古今を貫く大義は今日もなお存して英雄豪傑を尊ぶ気風が流れている。

三、詩韻吟神正氣を傳ふ
  詩聾漂渺蒼天に塞がる
  風雅逍遥世を遺れたるに似たり
  悠悠自ら楽しみ先賢を追う

〔文意〕
 詩のひびき、吟のこころは正気を伝えている。吟聾は、ひろびろとひびき渡って、青い空に
 ふさがるかのようである。
 品格のある詩吟を愛して逍遥すると天地の心に和して我なく、誠に世を忘れたる如くである。
 心はゆったり、のびのびとして自ら、昔の賢人の教えを学ぶことが楽しまれる。

四、旗幟鮮明吟道を弘む
  詩仙吟詠研を競いて同る
  千錘百錬歌朝暮
  好漢方に能く正風を傳へよ

〔文意〕
 宮城岳風会の旗印は、きわめて明らかである。それは吟道を弘めることを目的としている。
 したがって詩の巧みなもの、吟の上手なものが雲霞の如く、雨後の筍の如く研を競っている。
 さて、朝に千鍛、夕に百錬、吟聾は四六時中絶ゆることがないが、宮城岳風会の皆様がたに、
 どうぞ吟道の真髄を伝えて慾しいものだ。反省し、われらは誓って、正風を伝えよう。


2016年11月29日