【宮城文学散歩】今に伝わる北畠顕家軍(南朝方)への参陣の情景=加美町=
加美町は宮城県の北西部に位置し人口2万887人の農業を中心とした地域です。西方に加美富士と呼ばれる「薬来山」を仰ぎ、 さらに奥羽山脈の船形連峰をいただき山々にはブナ林や樹木、山菜の恵がある。これらの山麓から集められた清らかな清流が流れ鳴瀬川に集まる。
初夏は鮎釣りやカヌー大会、更に国道347号線沿いでは宮城と山形をかけ抜く加美町、尾花沢市、大石田間の街を貫通する自転車サイクルイベントが開催されている。
地域でのグルメ、なべ祭りなどが開催され大自然の魅力を存分に味わうためのイベントが多く開催されています。
冬はこの清流の源となる雪を利用したウインタースポーツが盛んでスキーや移住交流会、 宮城県雪合戦などが開催されます。
また、里山で栽培された野菜や山菜を販売するやくらい土産センター、やくらいガーデン、薬師の湯があり林泉館等の宿泊施設もあり四季を通じて楽しめます。
加美町は大崎地区農業の代表的な米生産地域であり、豊穣な大崎平野の恵を利用した酒の町でもあります。近年世界農業遺産にも認定されております。
平成15年(2003年の4月4日)中新田町、小野田町、宮崎町の三町が合併し、加美町となりました。
鎌倉時代には奥州総奉行の葛西壱岐守清重の支族である内海家(小野田) 四竈家(色麻) の一族が統治した。
内海家には桜の巨木があり春の目安となる「種まき桜」があり、数百年を経てそびえる桜を見に来る観光客が多くなりました。
南北朝期には北畠顕家に従い京都に遠征し足利尊氏の軍を九州に追討しました。
室町期には奥州探題である足利一門の大崎家が加美町 (中新田) に居城を構え奥州を統括した。
江戸時代には伊達政宗公が岩出山に移住し加美町の旧大崎家臣を配下に加え伊達家臣団が形成され伊達家の重臣である奥山家(小野田)や古内家(宮崎)只野家(中新田)がこの地を統治し多くの家臣が藩侯の警護のために江戸勤番を勤め、江戸屋敷に滞在し江戸の文化の導入に活躍した。
このため古代から鎌倉、南北朝、室町時代江戸時代をへて文化が継承され古いものは650年前の室町時代から続く中新田の「火伏の虎舞」は県重要無形文化財に指定されております。
ここで漢詩を紹介します。
「小楠公の母( 愛吟集-33)」 本宮三香
南朝の烈婦姓は楠木 許さず我が子茲に腹を屠るを
桜井の遺訓汝忘れたるか 刀を奪い死を戒め涙目に溢る
子別れの 松の雫に袖ぬれて
昔をしのぶ 桜井の里 (明治天皇御製)
南朝の武将楠正成は桜井の宿駅でわが子正行「あくまで天子に報いよ」と懇々と諭し、涙ながらに最後の別れを告げた。これによって楠木公の名は後の世まで誉れ高く続いた。
父正成は湊川に討ち死にし、その首級が届けられた時、子の正行は嘆き悲しみ自分も自害して果てようとした。
この正行の行動に母は父正成の遺言である「天子に忠義を尽くせ」との言葉を忘れたのかと、懇々と諭した。母の言葉に深く感じ反省し、子の正行は改めて誓いその後、南朝方の武将として各地に転戦し歴史に残る偉功を立てたのである。
南朝方の北畠顕家の軍勢に参陣し京都の都まで遠征した加美町の武将達の家々でもこのような漢詩の世界が見られたとロ伝され出陣にあたり家族や父子、伯父甥、兄弟の中でこのような情景がそこかしこで見られたと伝わります。
加美教場 伊藤 雄一