【宮城文学散歩】藤原実方朝臣を偲ぶ=名取市=

紫式部の「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人ともいわれる藤原実方朝臣が名取市愛島の地に眠っている。
実方の命日の時期にあわせ、名取市主催で「藤原実方朝臣を偲ぶ会」が開催された。篠笛が演奏される中、歌詠み、メッセージ伝達、献花が行われ、実方氏への思いを伝えた。
また、山田名取市長臨席のもと、リニューアルされた説明版の序幕式が併せて執り行われた。
実方は、藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれ、美貌と風流とを兼ね備えた貴公子であるとともに、「中古三十六歌仙」の一人であった。

ある年の東山での桜狩りでにわか雨に降られた時、
「さくらがり 雨は降り来ぬ 同じくは
ぬるとも花の 蔭にかくれむ」
(お花見にきたら雨が降ってきた どうせ濡れるなら花のかげに隠くれて濡れよう)
と詠んだ。
しかし、藤原行成に、「歌は面白し、実方はをこなり」(歌はいいけれど、実方の振舞いは馬鹿馬鹿しく思える)と嘲笑された。それを聞いた実方は清涼殿の殿上間で、行成の冠を取り庭に投げ棄て、立ち去ってしまう。
この一件を見た一条天皇は実方に「みちのくの歌枕を見てまゐれ」と勅命を下す。
長徳4(998)年、出羽国千歳山にある阿古耶の松を訪ねた帰り、名取郡笠島道祖信の前を通りかかり、土地の人が、「この神は効験無双の霊神、賞罰明らかなり、下馬して再拝して過ぎ給え」と諫めるが、それを無視して神社の前を通り過ぎようとすると、急に馬が暴れだし実方は落馬、その時の怪我がもとで、その年11月13日に帰らぬ人となった。
実方は人生の最後に、悔しさをつづった歌を残しました。
「みちのくの 阿古耶の松を たずね得て
身は朽ち人と なるぞ悲しき」
(みちのくの阿古耶の松を訪ねることはできたけれど、松の千歳の寿命に比べて限りある身が、この地で朽ちるのは本当に悲しいことだ)

墓所の入り口には「かたみのすすき」と呼ばれるすすきが植えられており、ここで百人一首などで有名な平安時代末期の歌人である西行法師が、
「朽ちもせぬ そのなばかり とどめおきて
枯野のすすき 形見にぞ見ゆ」
(朽ちることのない名声だけをこの世に残し、藤原実方はこの枯野に眠るというが、その形見は霜枯れのすすきがあるばかりだ)
という有名な歌を詠みました。このすすきは葉が細く一般のすすきに比べてせん毛が少ないと言われています。
実方の墓所を訪ねようとしたのは正岡子規や西行法師だけではなく、松尾芭蕉は元禄2(1689)年、実方の墓を訪れようとしたが、雨天で足元が悪くたどり着けず、「笠島や いずこ皐月の ぬかり道」
(実方の墓がある笠島はどこだろう。この五月のぬかるんだ道では訪れることもかなわない)
という一句を残している。
この句は奥州街道沿いの道祖神路の碑(の南面)と、実方の墓の入口近くにある石碑の2か所に記されています。

実方は、幾多の女性と恋愛関係を持っていたと伝えられ、一条天皇の皇后である定子に仕えた清少納言とも次のような恋の贈答歌があったと言われている。
実方は、陸奥への旅立ちが決まり、次に会えるかさえも分からない別れが近づいたとき、彼女に事情を告げました。
「思ひだに かからぬ山の させも草
誰か伊吹の 里は告げしそ」
(思いもよりませんでした。あなたに伊吹のような遠い所へ向かうよう告げたのはどなたなのですか)
この彼女の歌に応じて実方は、想いを打ち明けました。
「かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
(こんなにもあなたを想っていると、せめて言えれば良かったのですが、とても言えそうにありません。燃えるような想いを抱くほど私が慕っていたことは、あなたもご存じなかったでしょう)
清少納言は別れを惜しむ歌を送りました。
「とこもふち 淵も瀬ならぬ なみだ河
袖のわたりは あらじとぞ思ふ」
(私が悲しみで寝込んだ寝床もふちになってへこみ、浅瀬になることなく流れ続ける涙の川になりました。陸奥の国の袖にある川も越えて向かいたいけれど、もはや渡れないだろうと思います)
増田教場 渡辺岳峰
出典:藤原実方朝臣ガイドブック(名取市商工観光課)、中将実方朝臣の墓(名取市・名取市観光協会)