【宮城文学散歩】土井晩翠 =晩翠草堂(仙台市)=
詩人、英文学者として著名な土井晩翠の旧居である。昭和24年(1949年)から亡くなるまでここで過ごした。
晩翠と言えば盟友の滝廉太郎が曲を付した「荒城の月」(明治34年「中学唱歌集」)が有名だが、この碑石は草堂ではなく青葉城跡にある。歌詞は七五調で、第一節はおなじみの、春高楼の花の宴…で始まる。昭和27年夏の詩碑建立を見届けるとまもなく晩翠は世を去った。
草堂の表通りには「天地有情」という石碑が建っている。
これは詩人晩翠の名を不朽のものにした明治32年(29歳)刊行の処女詩集の名前である。この詩集中の大作「星落秋風五丈原」は同じ集中の「暮鐘」と並ぶ白眉とされた。
明治30年頃我が国の詩壇で双璧と言われた者がいた。『若菜集』を刊行した島崎藤村と『天地有情』を出した土井晩翠である。晩翠の詩は「星落秋風五丈原」に見るように男性的で国士型の硬派の文学である。それは藤村の優婉ともいえる女性的抒情とまさに対照的であった。
日清戦争は明治28年に日本の勝利のもとに終わっていたが、青年には、勇壮活発な高潮した感情の中に人生の悲痛を詠おうという詩歌の機運が起こりつつあった。晩翠が漢詩調の詩人として名を現すようになったのはまさにこの時代である。
晩翠は「星落秋風五丈原」の主人公諸葛孔明を通じて、他者に礼儀、恩義、信義、さらに人間の運命と死について熱く語っている。
この詩は、中国の魏・蜀・呉の三国時代(3世紀中葉)の忠臣諸葛亮孔明の悲劇的生涯をうたいあげた漢詩調の長編抒情詩である。漢王の後裔であった劉備が関羽や張飛と結んで、そのころ野に在った孔明に礼を厚くして軍師に迎え、呉および魏に対抗して蜀の国を立てた。だが劉備は在位わずか三年で病死する。孔明は劉備の恩義を決して忘れず、劉備の継嗣劉禅を助け、六度目の征魏の軍を起こして五丈原に出陣した。そこで孔明は重い病を患い、やがて悲劇の生涯を閉じる。