【宮城文学散歩】源俊頼・西行法師・松尾芭蕉=仙台市(榴ヶ岡)=
榴岡から西方を望むと、近代的なビル郡と、整備された道路、遠くに霞む山々が見え、この地が仙台の代表的な景観の一つと気付く。
榴岡の東方には、古に都との往還の道があり、多賀城に通じていた。榴岡や周辺の宮城野は、古来歌枕の地として大宮人にとって憧れの地であった。平安時代の貴族・歌人の源俊頼が
とりつなげ 玉田横野の 放れ駒 つつじの岡に あせみさくなり
と詠む。※写真提供:Wikipedia(左)
平安時代末には、この地に奥州藤原泰衡の陣が敷かれ、源頼朝軍に対峙したという。
その時代に詠まれた西行法師の
あはれいかに草葉の 露のこぼるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原
が残る。
時代が下って戦国時代、伊達政宗が仙台城築城の候補地として石巻の日和山と榴岡、青葉山を挙げている。幕府が決めた青葉山の天然の要害の地と比べると防御面で劣っていた。
江戸時代、元禄3年(1689)年5月、松尾芭蕉一行が画工・加衛門の案内で榴岡天満宮や宮城野の名所を旅した。
この芭蕉が訪れた場所に、平成27年3月、国指定名勝「おくのほそ道の風景地」として
「つつじが岡及び天神の御社(みやしろ)」と「木の下及び薬師堂」の2ヶ所が追加で指定されている。
「天神の御社」と記された榴岡天満宮の境内には、寛文7(1651)年、建立の唐門、
樹齢300年を越えるとされる、シダレザクラ・シラカシの老樹など芭蕉が訪れた頃の手がかりとなるものが残るほか、その後に芭蕉を顕彰して建てた数々の句碑もある。
「木の下及び薬師堂」には、慶長12(1607)年、伊達政宗が再建した薬師堂が宮城野の先にあって、日陰も漏らさぬほど繁った「木の下」の松林とともに、深い露に濡れており
みさぶらひ みかさと申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり(よみ人しらず)
の一節を芭蕉に思い起こさせた。
現在、享保4(1719)年、再建の観音堂の脇には、芭蕉が仙台城下の居宅を訪ねた大淀三千風供養碑や
芭蕉がおくの細道に詠んだ
あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
の句碑などが残る。